身近な法律問題
インフォームドコンセント
医療現場において用いられることが多い言葉です。
医療行為は、手術だけでなく、投薬、内容によっては検査も体に侵襲を与えます。
医師は、患者に対し、手術・投薬・検査によりえられる効能と成功率、手術・投薬・検査により引きおこされる副作用、他に考えられる治療・対処方法(保存的に対処するにとどめるというのも含みます)、それによる利益・不利益などを十分説明し、患者に理解してもらったうえで、自分で同意、決定をしてもらわなければなりません。
患者に意識がない、判断能力がないというときには、近親者に説明して、決定してもらわなければなりません。
「医師である私に任せなさい」「先生におませします」ですんだ時代もあったのでしょうが、悪い結果が出た場合、手術がミスだったとして損害賠償請求、たとえ、ミスがなかったとしても説明不十分で損害賠償請求というご時世ですから、普通は、まともな医療機関なら、十分な説明と納得のうえの同意を得ていると思います。
もちろん、インフォームドコンセントは、医療だけに限りません。
弁護士も、とりうる手段と、時間・費用も含めた利害得失を説明したうえで、依頼者に選択してもらうケースが多いと思います。
「弁護士である私に任せなさい」「先生におませします」ですんだ時代もあったかもしれませんが、今、そのような弁護士さんは珍しいと思います。
もっとも、弁護士が紛争解決をしようとしても、何もしないか、示談か、調停か、訴訟かくらいしか手段はありません。
民事事件なら、いきなり訴訟を提起する(仮差押え仮処分が必要な場合に多いです)、あるいは、示談か調停を選び、不成立なら訴訟という流れでしょうし、家事事件なら、調停を選び、不成立なら審判・訴訟という流れとなるでしょう。
相手のいることですから、相手方次第ということになってしまいます。
もちろん、選択は依頼者がするのですが、選択肢は自ずから限られ、相手方の出方次第という要素が大きいように思います。
個人の債務整理にしても、任意整理、個人民事再生、自己破産ということで(特定調停は、お金の都合などで、弁護士・司法書士に依頼できないのなら選択肢に入りますが、過払金が事実上請求できないなど、基本的にお勧めできません)、負債額、負債のふくらんだ経緯、持ち家か否かなどの要素で自ずから決まることが多いのが実状です。
一般に、弁護士は、説明は十分しますが、結果が不確定なため、本人に「究極の選択」を迫らなければならないということは、あまりありません。
また、不利な結果になったからといって、自分がちゃんとするべき仕事さえしていれば、結果のいかんを問わず、訴訟や紛議・調停などで責任追及されるということも多くありません。
弁護士の場合、依頼者に「究極の選択」を迫ることが最も多いのが、民事訴訟で和解にするか、判決をもらうか、いずれかを選択するかです。
実感として、訴訟での書証・人証の提出での「究極の選択」は多くありません。
裁判官が心証を開示しての和解を勧告して、こちらがのめないで判決となっても、案外、勝訴だったということがありますし、その逆もあります。
一審で敗訴したからといって、控訴審で逆の結論ということは往々にしてあります。
一審裁判官が示す心証が絶対ということはありません。
とはいっても、和解手続きにおいては、弁護士として、判決を選択したときの勝訴のある程度の見込みを述べ、和解を選択したときの利害得失を依頼者に考えてもらって、和解するかどうか、どのような条件で和解するかは、最終的に依頼者に「究極の選択」をしてもらうことになります。
このようなとき、「先生にお任せします」は、弁護士に一番嫌われます。
和解になると、和解するかどうか最終的に決めるのは依頼者で、弁護士は情報提供者・アドバイザーの立場にすぎなくなるからです。
医事紛争と同じように、弁護士の場合にも、結果が敗訴だったから損害賠償請求、たとえミスがなかったとしても、説明不十分で損害賠償請求という時代の到来は、仮にあったとしても、遠い遠い先のことでしょう。
本音は、そうだったら「いいな」と思っています。