身近な法律問題
部分社会論
「 2008年11月、ある科学高校2年生に在学中だった女子高生のAさんが、早期卒業のための縄跳びと競走のテストに遅れて到着した。B教諭は順番を待つよう言ったが、Aさんは自分の名前が呼ばれず腹を立て、B教諭に『なんで呼ばないんだ』と乱暴な口調で言った」
「 B教諭は、他生徒のテストの邪魔になるからどくよう言ったが、Aさんが言うことをきかなかったため、出席簿でAさんの頭を叩いた。するとAさんはB教諭のほほを叩き返した。」
「 学校はAさんに教師の指導に応じなかったことと暴行を理由に、6日間の特別教育を受けるよう懲戒を下した。Aさんは懲戒を受け入れたが、『教師を叩いたのは不当な指示と暴行に対する正当防衛だ』として懲戒の無効を求め訴訟を起こした。」
「 ソウル行政裁判所は、2009年6月25日、大学生になったAさんが、出身高校を相手取った懲戒処分取消訴訟において、原告敗訴の判決を下した。裁判所は、B教諭がAさんを出席簿で叩いたのは過ちだが、Aさんが教師のほほを叩いたのは正当な行為や正当防衛とは言えない。」
日本ならどうだろうと考えてみました。ヒマをもてあましていると思われたら困るのですが・・
かつて、大日本帝国憲法下では「特別権力関係論」という理論があり、司法の謙抑がいわれていましたが、戦後の日本国憲法においては、この法理をそのまま使うことができなくなりました。そこで、「修正された特別権力関係論」が唱えられるようになりました。
しかし、修正された「特別権力関係論」の衰退と相まって「部分社会論」は司法権が判断すべきかどうかの「境界」を論じるに当たり、広く議論の対象となるようになっています。
「特別権力関係論」は公権力と国民の関係を規定するものであり、私的な団体と個人の関係も包摂する「部分社会論」とは議論対象が同一ではありません。
「部分社会論」は、一般的には、「部分社会の内部の紛争は司法審査が及ばず、外部にまで影響を受ける(市民法秩序に影響する)ものは審査の対象になる」という司法判断の基準があるとする理論とされています。
戒告、短期間の登校停止程度の軽い処分なら、司法は判断しませんが、無期停学退学処分、退学処分といった重い処分については、司法が判断するとするような基準です。
司法審査の対象になるものとしては「地方議会議員の除名処分」「大学専攻科の修了認定」、 司法審査の対象にならないものとしては「大学の単位認定」、「政党内部の除名」などがあります。
ちなみに、これらは、すべて最高裁判所の判例です。
なお、「地方議会議員の除名処分」ですから、最高裁判所は、有効無効を判断したのであり、逆に、「国会議員の除名処分」の有効性なら、最高裁判所は、「統治行為論」を理由にして、司法判断は避けると思います。
日本の最高裁判所は、ドイツの連邦憲法裁判所とは異なります。
最初の韓国の事案の場合、日本なら、団体の自主性を尊重して、司法判断の対象とならないと判断されるでしょうね。
その前に、日本なら、「先生攻撃や!」「ほな、こっちは生徒防衛や!」と「だじゃれ」で終わってると思います。