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外国事情 バックナンバー1/2

カタルーニャとカスティーリャ

ワールドカップでスペインが優勝しました。

「バルセロナのスペイン広場に数万人が詰めかけ、カタルーニャ旗より多くのスペイン国旗が打ち振られた。バルセロナでスペイン国旗の方が目立つのは異例のことである」という新聞記事が載っていました。

 何か不思議に思われませんか。

 カタルーニャ州は、スペイン王国に属するバルセロナを州都とする自治州です。
 バルセロナは、ガウディのサグラダ・ファミリアなどで有名で、オリンピックも開催されています。

 カタルーニャ州旗は、この旗です。

 スペイン国旗と違いますね。

 カタルーニャ地方の人々は、首都マドリードを中心とするスペイン王国への帰属意識が強くありません。

 歴史的にみても、1469年、アラゴン=カタルーニャ王子フェルナンド(のちのフェルナンド2世)とカスティーリャ王女イサベル(イサベル1世として1474年に即位)が結婚し、カスティーリャとアラゴン=カタルーニャが同君連合となった年とみなされています。
 つまり、アラゴン=カタルーニャと、カスティーリャが同君連合として1つの国になりました。
 レコンキスタ、つまり、アラブ人のイベリア半島からの追放でおなじみですね。
 ちなみに、スペインの中心はカスティーリャ、スペイン語といえば、カスティーリャ語のことをいいます。ちなみに、お菓子のカステラは、カスティーリャのポルトガル語読みといわれています。

 その後、富を蓄えたカタルーニャ人の間で、自らのカタルーニャ人としての出自を誇るという意味から、カタルーニャ語・カタルーニャ文化の復活がさけばれます。ガウディは、その時代の人です。
 しかし、1936年、スペイン内戦が勃発し、フランコ総統率いる反乱軍がスペイン第二共和政政府を倒しました。
 フランコ総統時代には、カスティーリャ語(スペイン語)以外の言語の公での使用が大幅に制限されるなど、弾圧されました。
 豊かなカタルーニャがスペインから分離独立しては困りますね。

 現在は、スペインでは、カスティーリャ語(スペイン語)のほか、カタルーニャ語も自由に読み書きされています。
 ほとんど「方言」くらいの違いしかないそうですが。
 そして、スペイン代表チームの半分を占めるバルセロナ出身の選手は、今でも、試合前の国歌斉唱を拒否しているほどです。

 ヨーロッパ大陸では、どこの国の車かわかるように、自動車に国のアルファベットをつけます。
 ドイツは「D」、フランスは「F」、スイスは「CH」、スペインは「E」(エスパニョール)ですが、カタルーニャの人は「C」(カタルーニャ)をつれているほどです。


 ということで、冒頭の「バルセロナのスペイン広場に数万人が詰めかけ、カタルーニャ旗より多くのスペイン国旗が打ち振られた。バルセロナでスペイン国旗の方が目立つのは異例のことである」という記事になるのです。

 ただ、スペイン代表では、決勝点をあげたイニエスタ、シャビ、プジョルら多くのバルセロナの選手が活躍しました。決勝点をあげたイニエスタなどは「聖人」扱いです。
 バルセロナ市民は「チームの半分はカタルーニャ人だ。われらがバルセロナ(スペインリーグの人気チーム)が勝ったのも同じだ」と胸をはります。
 そして、カタルーニャ旗ではなく、スペイン国旗をうち振ったのです。

 スペインリーグ(リーガ・エスパニョーラ)では、レアル・マドリードとバルセロナは両巨塔で、熱狂的なファンがいます。

 日本の阪神と巨人のファンとは全く違います。

 経済危機により失業率が20%に達し、財政不安におびえるスペインですが、歴史に残る快挙に国民は力づけられたようです。

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