2013年バックナンバー
電気に頼った生活
何から何まで電気ですから、停電をすると大変ですね。
私は、昭和30年和歌山市に生まれまれています。
家の電気が蛍光灯ではなく白熱球であった時期があった記憶があります。
小学生のころに蛍光灯はありました。
今でもそうですが、トイレや玄関などは白熱球が多いですね。
地震で停電になった記憶はありませんが、台風が原因で停電になったことはありました。
「ろうそく」の出番でした。
テレビはあまり普及していませんでした。
昭和34年の今上天皇陛下のご成婚の時に普及しました。我が家も同じです。
もちろん白黒、チャンネルは12、放送されているのは偶数のみ、なぜ、写りもしない奇数のテレビのチャンネルにあるのか不思議に思っていました。
チャンネル争いは、チャンネルを「引抜いてしまう」のが「手っ取り早い」手段でした。
エアコンはありませんでした。扇風機です。
ただ「風をかき回す」といえばそれまでですが、扇風機は、今でも便利に使われています。
電気炊飯器はありました。
竈(かまど)などある家の造りではありません。
冷蔵庫は、電気冷蔵庫ではなく、氷を一番上に置いて冷やすという冷蔵庫が一時期ありました。
「氷屋さん」という店屋がありました。
大きな氷をのこぎりで引いて、適当な大きさにして売っていました。
電気冷蔵庫は、小学生のころ我が家に来たでしょうか。
洗濯機はありました。二層式で、しぼるのは2つのローラーの間に洗濯物をはさみ、手回しで水気をとっていました。歯磨きのチューブの最後の部分を出すのにも重宝しました。
洗濯板というのをご存じでしょうか。
小さいころ家にありました。ただ、母が洗濯板を使っているのは見たことがありません。
ミシンは、足踏み式のミシンでした。
今も、電動ミシンはありますが、服をミシンで縫うということは、一般にしなくなくなったようです。既製服も安いですし、デザイン、品質も向上しています。
日本人なら、男性でも、針と糸で器用に裁縫ができます。
私も、器用にではありませんが、簡単な裁縫くらいはできます。
私が、約30年前の留学中に、簡単な裁縫をするのをみたドイツ人男性が、驚いていたのが記憶にあります。
レコードプレーヤーはありました。
といいますか、電気あってのレコードプレーヤーですね。
蓄音機が発明されたころは、手回しだったでしょう。
テープレコーダー、カセットテープ、家庭用ビデオテープ、ワープロ、パソコンなどは、その後に発売されたものです。
いずれも、最初のころは高価だった記憶があります。
VHSのビデオデッキなど、私の裁判官の初任給(昭和55年)の3分の2くらいしました。
ワープロ、パソコンは、裁判所のものを使っていました。
裁判官退官の2、3年前ころから、各裁判官に「貸与」されるようになりました。
裁判官を退官したとき(平成2年)、自宅で使用していたワープロを返却するようにいわれて「びっくり」しました。
裁判官の法服は、さすが、返却しろといわれず、今でも記念に残してあります。
パソコンを購入したのは、弁護士になってからです。
携帯電話もありませんでした。
私は、勤務弁護士をしていましたが、平成7年、3万円以上でPHSを買いました。
勤務先には電話番号は退職まで教えていませんでした。
教えたが最後、いつ呼び出されるかわかりませんから。
今年になって、深夜、自宅の安全ブレーカーが落ちたことがあります。
安全ブレーカーの位置を聞いていません。
マニュアルを懐中電灯で探しましたが見あたらず、「まあいいや。明日探そう」ということで、寝ることにしました。
翌日朝になってからみると、洗面所の天井付近に安全ブレーカーがついていました。
電気が使えなくなって、電気の「ありがたさ」がよくわかります。
電気がないと生活できませんね。