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2014年バックナンバー

日清戦争から120年

日清戦争120周年を迎えました。

 日清戦争は、明治27年(1894年。光緒20年)、朝鮮国内の甲午農民戦争をきっかけに6月に朝鮮に出兵した日清両国が、8月1日宣戦布告にいたったものです。

 120周年というと中途半端なようですが「十干十二支」でいえば、ちょうど2周り(甲午)に該当します。

 日本では日清戦争ですが、中国では「甲午戦争」と呼びます。

 戦争などについては、日本は、1つしかない戦争なら「日清戦争」「日露戦争」「第一次世界大戦」「第二次世界大戦」と呼び、複数ある、例えば、元寇なら「文永の役」「弘安の役」と元号で呼びますね。

 元号は、中国発祥ですから、元号を多用してもよさそうなものですが、「十干十二支」で呼びます。
 韓国の場合、朝鮮は伝統的に中国の属国で会ったため、基本的には中国王朝の暦を用いていて、このため、朝鮮独自の元号は少なく、やはり「十干十二支」を用います。


 中国において、日清戦争120周年記念日は、盛大な反日行事よりも静かに敗戦の原因を再確認して、過ぎた日の誤ちを繰り返さないでおこうという行事のようです。

 甲午戦争博物館があります。

 清の主力海軍北洋艦隊司令部の場に展示された口径210ミリの大砲が展示されています。
 北洋艦隊はドイツの軍需企業がつくりました。
 大砲は、今「ティッセン・クルップ」となっている「クルップ」が製造下、当時としては、最新鋭の武器です。

 清は、定遠艦や鎮遠艦や済遠艦の大砲をまともに撃つこともないまま日本に黄海海戦で敗退しました。
 撃沈、自沈、日本が戦利品として捕獲した艦もあります。

 展示された口径210ミリの大砲は、済遠艦のもので、日本が戦利品として捕獲し、日露戦争のとき、同じ「済遠」として戦闘に参加しました。
 旅順近海で沈没した「済遠艦」の大砲を1988年に何とか引き揚げて提示しているそうです。

「清国はアジア最強の鉄甲戦艦・済遠艦を保有してその戦力は日本に遅れをとらなかったのに敗戦した理由は何でしょうか。それは当時の清朝が腐敗していたためです。実権者の西太后は頤和園の増築工事に予算を使い果たしたために丈夫な大砲に装着された砲弾はきちんと使われませんでした」と、ガイドされているようです。


 戦力は、清が日本より上だったかもしれませんが、将兵は、日本が上だったので、日本が日清戦争に勝利し、下関条約により、朝鮮を清から独立させ、台湾や賠償金を得ました。

 中国の海洋進出は著しいものがあります。

 ただ、将兵の士気については疑問視されています。

 儒教は「孝」を教えます。
 第一は、祖先祭祀をすること。第二は、家庭において子が親を愛し、かつ。敬うこと。第三に、子孫一族が続かせることです。

 中国は、一人っ子政策をとってきました。
 一人っ子が、子をつくる前に死んでしまえば、一族が絶えてしまいます。
 子をつくる前に死ぬことは、親や祖先に対するとんでもない「不孝」とされています。
 中国人が、本気で、そう思っていても不思議ではありません。

 とすると、現在の中国が、本気で、一線に優秀な将兵を配置して戦争することはあり得ないという人もいます。
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