よもやま話 バックナンバー1/2
続ワールドカップ
私は、1982年(昭和57年)6月28日に成田空港を発ち、翌6月29日に西ドイツに着きました。
1982年ワールドカップは、1982年6月13日から予選が始まり、7月11日のイタリア対西ドイツの決勝で幕を閉じました。
私は、1982年7月から、ドイツ語の勉強をするため、当時西ドイツのBoppardという町の語学学校に通っていました。
西ドイツが勝ち進むにつれて、ワールドカップ(Fussball- Weltmeisterschaft 1982 )の話題が語学学校で出るようになりました。
私の当時の下宿には、テレビがありませんでしたので、ニュースで知るだけで、実況放送は見ていません。
ただ、1982年7月11日のイタリア対西ドイツの決勝戦だけは、下宿の大家(高齢の未亡人でした)さんのリビングでテレビを見せてもらいました。
当時、なぜ、ドイツ人が、ワールドカップに熱狂しているのかは理解できませんでした。
敗戦の翌日である7月12日は、町中が「葬式」ムードだった記憶があります。
語学学校の先生も、Viteweltmeister(準優勝チーム)になったといいながらも、残念さを隠せませんでした。
サッカーが、ドイツの、いわば「国技」であるということを知ったのは、ドイツ語の新聞もある程度読めるようになり、ボンのアパートを借りてテレビを見ることができるようになってからのことです。
ウィンタースポーツのシーズンを除いて、スポーツ番組は、ほぼサッカーのみ放送され、大きな試合があるともなると、公共放送(日本でいえばNHK)ですらも、定時のニュース番組をやめて、サッカーの放送を実況するというお国柄です。
何はなくても「Bundesliga」、ボン市民の多くのひいきチームは、隣市の1FC Koelnでした。
日本でサッカーがメジャーな地位を得るのは、Jリーグが発足してからのことです。
1982年ワールドカップを熱心にみた人はどのくらいいるでしょう