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OA・コンピュータ バックナンバー

OAの進歩

私が司法修習生になったのが昭和53年、裁判官になったのが昭和55年です。

 修習生当時印象に残っていることは、コピーといえば、青焼き(「死語」でしょうか)が主流で、今、コンビニで10円でできる普通のコピーをとろうとすると、裁判所宛の、利用目的、枚数、青焼きでは不十分な理由など申請書を書いて、許可が得られて、初めてコピーができました。

 また、修習生の研修に、ファクシミリの工場見学というカリキュラムがあったのですが、当然といえば当然の話なのですがコンピュータによるもの(白何点、黒何点、白何点・・をという情報を送信)ではなく、送信側の円筒と受信側の円筒を同時に回転させ、双方の円筒が、同じように少しずつ右の方にずれていくようになっていて、送信側のセンサーが黒か白かを読みとって信号を送り、受信側は、白という信号ならペン先のようなものを落とさず、黒という信号ならペン先のようなものを落とすというシステムだったという記憶があります。

 当然の話ながら、パソコン、ワープロはなく、裁判書や起訴状、訴状や準備書面は和文タイプライターで打っていました。
 裁判官として大阪に勤務するようになって驚いたのは、裁判官室の電話機は、市内はつながるのですが(厳密には市外局番が「06」はつなげる。尼崎支部はOK)、市外電話は、交換手に電話して、電話番号を告げからて、つないでもらっていた記憶があります。

 昭和57年前後、ワープロが、当時先進的な法律事務所で使用されるようになりました。当時は、16ドットのドットインパクト方式で、なんと和文タイプに比べて読みにくく、年輩の裁判官などは、「これは何だ」といっておられたという記憶があります。

 昭和57年から昭和59年まで、ドイツに留学していたのですが、当たり前の話しながら、ドイツ語は、タイピストに頼む必要がなく、タイプライターで、きれいな文字が打ち出せるというのに感動したことが記憶に残っています。
 もっとも、ドイツ語能力の欠如のため、いきなりタイプライターを打つのではなく、一度、紙に書いて、辞書などにあたって推敲を繰返し、完成校をタイプライターで打っていました。
 当時、ドイツ人が、すべてタイプライターを自分で打てるわけではなく、ある程度のインテリに限られていて、とりあえず、タイプライターの打てる人は「一応インテリ」と判断することができました。

 ドイツから、昭和59年に帰ってみると、裁判所にパソコンがありました。
 ワープロソフトもありました。
 当時、高松地方裁判所にあったパソコンは、NEC9801F2という機種でしたが、民事訟廷にあるパソコンは、実質的に、首席書記官と私だけしか使わず(使えず?)、自分が好きなとき、好きなだけ使える「パーソナル」「コンピュータ」でした(首席書記官は、一応遠慮して、私が使うときには、パソコンの使用を控えてくれていました)。

 なお、コンピュータといえば、大学教養学部時代、FORTRANという言語で、パンチカードに打ち込み、専門学部にある大型コンピュータを利用させてもらっていたのが初めてです。打出した、折り重なるような紙に「error」が続けて打出されたときは「私のプログラムではない」という顔をしていましたが、周りの人にはわかるようでした。
 ちなみに、私が初めて購入した「コンピュータ」はシャープの「ポケコン」、BASICという言語で動いていました。いろいろ、プログラムは入れていましたが、経過日数(昭和○年○月○日から昭和○年○月○日までは○日間)に利用していました。

 私が、特例判事補(判事補6年目から、単独で判決ができ、司法行政の点でも1票をもちますから、実質は「判事補」という名の「判事」です)になった昭和60年ころから、裁判官の間で、パソコン(当時、パソコンソフトの質がよくなかったようです。あと専用機は、辞書がROMで焼付けられていました)ではなく、ブラウン管式の専用ワープロ(NECの「文豪」とか、シャープの「書院」とか)を使用し始める人がでてきましたが、なんせ50万円程度、夏のボーナスがほとんど不吹き飛ぶという高価なものでしたのでしたので、買いたくても買えず(現在の液晶テレビと同じで、すぐ安く良いものが出るという予想での買控え)、裁判書のパソコンで我慢していました。そのころになると、パソコン利用のライバルが増え、朝早くきて利用するくらいしかできなくなっていました。

 予想通り、昭和62年ころから、液晶式のパソコンが20万円程度で売り出されるようになりました。
 ここが見切り時ということで、シャープ「ミニ書院」を購入し、それ以降は、文書を書くのは、原則パソコン(ワープロ)になり、職業病ともいえる「ペンだこ」は消滅しました。
 ちなみに、ワープロによる判決書は「永久保存に問題がある」という理由で、和文タイプによる打ち直しでした。
 「ミニ書院」には、「書院カルク」という表計算ソフトが添付されていましたので、利息制限法引き直しなどのプログラムをつくり、それなりに便利に利用していました。

 昭和63年に、裁判官の希望者には、20万円以下なら、好きなワープロを貸与するという制度が導入されました。本来なら、お金を追加して、安くなってきていたパソコンを購入したかったのですが、あくまでも貸与なので無理でした。当時、20万円で、パソコンは買えませんでした。
 結局、同じようなワープロを買ったのですが、当時のパーソナルワープロのプリンタは熱転写式、インクリボンが「使い放題」になったのが、ありがたかった記憶があります。

 このとき印象に残っているのが、土曜・日曜に、起案のため出勤すると、部長が、ガイドブック片手に、1人でワープロの操作の練習をしていたことです。陪席裁判官に、教えてもらうというのはプライドが許さず、かといって、今更ワープロといわれても難しい、また、家に練習用のワープロを買うことさえままならぬ「悲哀」を感じたものです。

 私が、最初に、パソコンを買ったのが、昭和63年、エプソンのNEC互換機(デスクトップ)でした。
 そのときのワープロソフトが一太郎Ver3、今も一太郎を利用していますが、だんだん肩身が狭くなってきています。裁判所は、一太郎派が結構います。表計算は、Multiplanでした。

 翌平成2年に、裁判官を退官し、大阪弁護士会の某法律事務所で「イソ弁」をすることになりました。
 イソ弁でしたので、あくまで、間借りという意識がありましたので、デスクトップ機ではなく、HD付のラップトップ機(これも「死語」かもしれません)を購入しました。
 ワープロ、表計算、それから、大阪弁護士協同組合が「先鞭」をつけた「パソコン通信」「Ben-Ben NET」に利用していました。あと、宛名書きソフトや各種辞書ソフトをインストールしています。
 判例検索CD「判例マスター」も、当時、自費で購入しました。自費の理由は、独立するとき、細かいことでトラブるのは嫌でした。
 ちなみに、独立後の事務所には、事務のワープロ以外、パソコン関係のハード・ソフトは、私の新事務所に移転し、一切なくなっていました。

 やはり、平成7年(1995年)は記念すべき年でしょうか。
 私の自宅のパソコンは、翌平成8年、MS-DOSから、WINDOWSにかわりました。草の根のパソコン通信であるBBSから、インターネットに時代は変わっていました。
 もっとも、自宅ではWINDOWSを使っていましたが、事務所では、使い慣れたMS-DOSを使っていました。
 
 平成8年の独立の際も、WINDOWSパソコンが主ですが、DOSパソコンも何かの用意に、いつでも動かせるようにしておきました。安物のデスクトップを2台買い、有線LANでつなぎました。

 まさに、それからはインターネットの時代です。
 WINDOWSソフトも、多種多様なものができました。
 機能は、向上の一方、便利になったものです。

 正直いって、今のOA機械のない、法律事務などはやりたくありませんし、現実問題としてできないでしょう。
 マシンの機能は、向上してきました。
 ちなみに、今でも、平成8年(1995年)版一太郎Ver6を使っています。
 万年筆はモンブランではいけないとかいう「こだわり」みたいなものでしょうか。

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