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2015年~2017年バックナンバー

魏志韓伝

 邪馬台国論議があります。

 邪馬台国が、近畿にあったか九州にあったかという論議です。

 魏志倭人伝に記載されています。

 中国の歴史書「三国志」のうちの「魏書」「烏丸鮮卑東夷伝」のうちの「倭人条」のことです。

 「三国志」のうちの「魏書」「烏丸鮮卑東夷伝」は、「烏丸」「鮮卑」「夫餘」「高句麗」「東沃沮」「□婁」「□」「韓」「倭」のことが記されていて、「夫餘」「高句麗」「東沃沮」「□婁」「□」「韓」「倭」が「東夷伝」です。
 なお、□は、当該漢字が、JIS漢字にない文字です。

 

 「三国志」の著者は、西晋の陳寿、3世紀末に書かれ、中国では正史となっています。

 

「三国志」の「東夷伝」には、「韓条」もあります。
 以下の通りです。


「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也。馬韓在西。其民土著、種植、知蠶桑、作緜布。各有長帥、大者自名爲臣智、其次爲邑借、散在山海間、無城郭。

 

有爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟□國、臣濆沽國、伯濟國、速廬不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟廬國、素謂乾國、古爰國、莫廬國、卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗廬國、卑彌國、藍奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟廬國、内卑離國、感奚國、萬廬國、辟卑離國、臼斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷廬國、牟廬卑離國、臣蘇塗國、莫廬國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國、凡五十餘國。

 

大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。
辰王治月支國、臣智或加優呼臣雲遣支報安邪□支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號。其官有魏率善邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。

 

侯準既僭號稱王、爲燕亡人衞滿所攻奪。

 

【魏略曰、昔箕子之後朝鮮侯、見周衰、燕自尊爲王欲東略地、朝鮮侯亦自稱爲王、欲興兵逆撃燕以尊周室。其大夫禮諫之乃止。使禮西説燕、燕止之不攻。後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方取地二千餘里、至滿潘汗爲界。朝鮮遂弱、及秦并天下、使蒙恬築長城到遼東時、朝鮮王否立、畏秦襲之、略服屬秦、不肯朝會。否死其子準立。二十餘年而陳項起、天下亂、燕齊趙民愁苦、稍稍亡往準、準乃置之於西方、及漢以廬□爲燕王、朝鮮與燕界於□水。及□反入匈奴、燕人衞滿亡命、爲胡服東度□水、詣準降。説準求居西界、故中國亡命爲朝鮮藩屏。準信寵之、拜爲博士、賜以圭封之百里、令守西邊。滿誘亡黨、衆稍多。乃詐遣人告準言漢兵十道至求入宿衞、遂還攻準。準與滿戰、不敵也】

 

將其左右宮人走入海居韓地、自號韓王。

 

【魏略曰、其子及親留在國者、因冒姓韓氏。準王海中、不與朝鮮相往來】

 

其後絶滅、今韓人猶有奉其祭祀者。

漢時屬樂浪郡、四時朝謁。

桓靈之末、韓□彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡、遣公孫模、張敞等、收集遺民、興兵伐韓□。舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。

景初中、明帝密遣帶方太守劉□、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。其俗好衣□、下戸詣郡朝謁、皆假衣□、自服印綬衣□千有餘人。部從事呉林以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪、吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。

其俗少綱紀、國邑雖有主帥、邑落雜居、不能善相制御。無跪拜之禮。居處作草屋土室、形如冢。其戸在上舉家共在中、無長幼男女之別。其葬有棺無槨。不知乘牛馬、牛馬盡於送死。以瓔珠爲財寶、或以綴衣爲飾、或以縣頸垂耳、不以金銀錦繍爲珍。其人性彊勇、魁頭露□、如□兵、衣布袍、足履革□)□。其國中有所爲及官家使築城郭、諸年少勇健者、皆鑿脊皮、以大繩貫之、又以丈許木□、通日□、不以爲痛。既以勸作且以爲健。常以五月下種訖、祭鬼神、羣聚歌舞飮酒晝夜無休。其舞數十人、倶起相隨踏地低昂、手足相應、節奏有似鐸舞。十月農功畢亦復如之。信鬼神、國邑各立一人主祭天神、名之天君。又諸國各有別邑、名之爲蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。諸亡逃至其中、皆不還之、好作賊。其立蘇塗之義有似浮屠、而所行善惡有異。其北方近郡諸國差曉禮俗、其遠處直如囚徒奴婢相聚。無他珍寶。禽獸草木略與中國同。出大栗、大如梨。又出細尾鷄、其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。又有州胡在馬韓之西海中大島上。其人差短小、言語不與韓同、皆□頭如鮮卑、但衣韋、好養牛及豬。其衣有上無下、略如裸勢。乘船往來、市買韓中。

馬韓之東。其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵、其言語不與馬韓同。名國爲邦、弓爲弧、賊爲寇、行酒爲行觴。相呼皆爲徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人爲阿殘。東方人名我爲阿、謂樂浪人本其殘餘人。今有名之爲秦韓者。始有六國、稍分爲十二國。

弁辰亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊□、次有殺奚、次有邑借。有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁(辰)樂奴國、軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國(馬延國)、弁辰□盧國、斯盧國、優由國。弁、辰合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立爲王。

【魏略曰、明其爲流移之人、故爲馬韓所制】

土地肥美、宜種五穀及稻、曉蠶桑、作□布、乘駕牛馬。嫁娶禮俗、男女有別。以大鳥羽送死、其意欲使死者飛揚。

【魏略曰、其國作屋、横累木爲之、有似牢獄也】

國出鐵、韓、□、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。俗喜歌舞飮酒。有瑟、其形似筑、彈之亦有音曲。兒生、□其頭、欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。便歩戰、兵仗與馬韓同。其俗、行者相逢、皆住讓路。

弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異、施竃皆在戸西。其冒□廬國與倭接界。十二國亦有王、其人形皆大。衣服□清、長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。」

 

 一部抜粋します。

 

「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也。馬韓在西」

 

 「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限りとし、南は倭と隣接している。広さはおよそ四千里四方。三つの国があり、一は馬韓といい、二は辰韓といい、三は弁韓という。辰韓とは、いにしえの辰国のことで馬韓の西に存在する」などと書かれています。
 帯方群は、魏の出先機関で、中国領となります。

 

 韓の東西の限界を海と書き、韓の南の限界を海と書かず、倭と接していたということです。

 海を渡る事なく倭の領土にたどり着けたという事は、朝鮮半島南部は倭の領土だったということになります。

 

 「國出鐵、韓、□、倭皆從取之」

 

 辰韓の項です。
 「国では鉄を産出する。そこで韓、□、倭は、皆で之を取る」と書かれています。
 倭国が、わざわざ、対馬海峡を渡って鉄を取りに(「採掘しに」)いくというのは常識的ではありません。
 辰韓と倭は陸続きということになります。

 

 「弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異、施竃皆在戸西。其□廬國與倭接界」

 

 弁辰の項です。

 「弁辰は辰韓に雜居し、城郭を有する。衣服や住居は辰韓に同じ。言語や法俗は似ているが、祠に鬼神を祭るのは異なり、皆が家の西にかまどを置く。そこの□盧国は倭と境を接する」
 やはり、辰韓と倭は陸続きということになります。

 

 ということで、朝鮮半島の南部に、倭の領土があったことになります。

 

 古代に書かれた中国の歴史書の内容の信憑性は高いでしょうね。

 

 邪馬台国論争も、「魏書」「烏丸鮮卑東夷伝」が正しいという前提で、すべて議論がなされています。

 

 任那の日本府は、私のころには、教科書に掲載されていましたが、「魏書」「烏丸鮮卑東夷伝」のうちの「韓条」は、習った記憶がありません。

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