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雑記帳

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漢城百済時代のソウル地域に古代日本人が居住していた可能性

ハンギョレ新聞・令和6年3月8日付記事

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 漢城百済時代のソウル地域に古代日本人が居住していた可能性

 1500年余り前に日本からソウルに移ってきた技術者をはじめ、倭の移住民が工房などの生産活動に従事していた事実が明らかになった。最近、彼らが暮らしながら墓に使う葬儀用品として使ったと推定される日本特産の土器が相次いで確認されたためだ。

 大韓文化財研究院は(註。令和6年3月)6日、今日のソウルである漢城に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦18年~西暦475年)の官営土器窯関連遺跡(京畿道城南市福井洞から、古代日本の権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物の「埴輪」を初めて発見したと明らかにした。大韓文化財研究院は地中の文化遺産を発掘・調査する機関だ。
 埴輪は5世紀前半の古代日本の典型的な装飾型土器で、主に円筒形のものと動植物形の象形造形物、家などの住宅造形物などに分けられる。今回発掘されたのは円筒形で外壁に穴を開けた5世紀の造形物だ。

 この遺跡は、福井洞393番地の霊長山の麓一帯7798平方メートルの面積で確認された。百済時代に国が運営したとみられる土器窯と廃棄場施設が散在しているが、百済王城跡として有力な風納土城、夢村土城からわずか4~5キロメートルの距離なので、王室が管掌して物品を調達する国営工房施設の一部と推定されてきた場所だ。関心が集中した埴輪の破片は、2022年に遺跡の廃棄物層から黒煉瓦、軒丸瓦、平瓦、内拍子など数百点と共に発掘された。突出した帯を付けて巻いてあったり、外壁の表面に一定間隔で線を引いた日本特有の仕上げ跡がはっきりとみられる埴輪円形土器の破片であることが判明した。

 大きさが15~20センチの埴輪の破片は、一部分に円形の穴が開いた円筒形で、一部の破片は帯が上下に巻かれたり、このような帯の跡が残ったままだった。破片の下側である低部は、古墳の墳丘の地層につく部位なので、別途の手入れはせずに、上の方だけを手入れした低部も見える。独特の引っ掻き模様の跡も発見された破片のほとんどで観察される。

 大韓文化財研究院のイ・ヨンチョル院長は、「倭の職人たちが日本から移住して百済の官窯や工房に入り、百済の職人たちと一緒に作業した痕跡と思われる」とし「墓の装飾物である埴輪の実体が、韓国の首都圏の百済施設跡で明確に確認されたのは初めて」と話した。2000年代初めに百済王城跡であることが有力な風納土城を発掘し、手のひらより小さい残片大の埴輪の破片が三点ほど出たことはあるが、大きさが小さく出土の状況が明確ではないため、大きな注目を集めることはできなかった。

 韓日古代史を研究してきた歴史考古学界の一部の専門家たちは驚きを隠せずにいる。紀元前18年から475年まで存続した百済王朝の最初の都で、現在のソウル松坡区、江東区や京畿道城南市一帯にあたる旧漢城地域で、1600年前に外交官や職人をはじめとする倭人たちが居住して活動したことを示す明確な根拠が出たと評価されるためだ。

 特に埴輪は4~6世紀の日本の古墳時代の権力者、実力者の大型墓(日本では前方後円墳と呼ばれる)に欠かせない墳丘の重要装飾部材だったという点で、1600年~1500年前に古代日本の移住民が百済のソウルの都に暮らし、特有の墓を建てて飾った可能性が提起されている。まだ断定はできないが、この埴輪の破片の発見で、百済の首都である漢城一帯に倭の職人や外交官らが移住した居住民村があったという推論も可能になったという分析が出ている。

 これまで韓日両国の学界は、古代朝鮮半島で日本と直接交流した有力な対象地として全羅道栄山江)一帯を挙げてきた。この30年間、この地域で倭系移住民のものとみられる前方後円墳が多く確認され、円筒形の他に馬や人などを形象化した埴輪も相当数出土している。しかし今回の埴輪の発見で、首都圏一帯にも埴輪を墳丘の装飾物として使った倭人の墓が存在したという推論が可能になった。

 百済の中央政府があった首都圏一帯の工房で、栄山江流域の倭系遺物より時期が早い5世紀前半の埴輪が出たことで、百済の中央政府と古代日本の間の密接な直接交流が先に進み、続いて百済の領域である栄山江流域と倭との交流が続いた可能性を示しているからだ。研究院側は来月に正式報告書を出版する予定であり、遺物の性格をめぐって学界の議論が熱くなるとみられる。

---引用終了---

 「土偶」は縄文時代に作られたものですが、埴輪は古墳時代(4世紀~7世紀)に作られたものです。
 韓国は進歩しました。その昔は、古墳からまずいもの(古墳が日本人=倭人の墓であることの証拠)が出土すると、知らない顔をして埋め戻すということもありましたが、そうはしなかったようです。

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