2023年バックナンバー
雑記帳
KANO 1931海の向こうの甲子園
今年、スイスに旅行したとき、台湾からスイスに新婚旅行にきたカップルにあました。
台湾のどこから来たかと問うと「阿里山の近くからきた」との答えです。
台北や高雄や花蓮くらいしか知らない他国からの旅行者が多いのでしょうね。
「チーアイは知っていますよ。中心のロータリーには野球選手の像が建っていますよね」というと驚いていました。
台湾映画「KANO」という映画をご存知ですか。
昭和6年(1931年)に台湾の嘉義農林学校野球部が、夏の甲子園出場を果たし、準優勝した実話に基づいた映画です。
「KANO」は、嘉義農林学校の「嘉農」の略です。
学校名は短縮することが多いです。
台湾制作ですが、舞台となった時代背景から、セリフの多くは日本語であり、一部に台湾語、客家語、原住民語が使われています。
日本公開は、平成27年1月24日でした。
第二次世界大戦前は、日本領である台湾、朝鮮、満州といった外地の学校も予選および全国大会に参加していました。
昭和6年夏の甲子園の出場校は以下のとおりです。
札幌商(北海道、初出場)
福岡中(東北・岩手、2年ぶり4回目)
秋田中(奥羽・秋田、7年ぶり4回目)
桐生中(北関東・群馬、2年連続3回目)
千葉中(南関東・千葉、初出場)
早稲田実(東京、3年ぶり9回目)
神奈川商工(甲神静・神奈川、3年ぶり2回目)
敦賀商(北陸・福井、7年連続7回目)
長野商(信越・長野、6年ぶり2回目)
中京商(東海・愛知、初出場)
平安中(京津・京都、5年連続5回目)
八尾中(大阪、初出場)
第一神港商(兵庫、4年ぶり5回目)
和歌山商(紀和・和歌山、初出場)
大社中(山陰・島根、10年ぶり3回目)
広陵中(山陽・広島、3年ぶり4回目)
松山商(四国・愛媛、2年連続8回目)
小倉工(北九州・福岡、2年連続2回目)
大分商(南九州・大分、初出場)
京城商(朝鮮、初出場)
大連商(満州、2年連続9回目)
嘉義農林(台湾、初出場)
京城商(朝鮮)は現在のソウル、大連商(満州)は現在の大連、嘉義農林(台湾)は現在の嘉義(チーアイ。かぎ)にありました。
嘉義市は阿里山鉄道の出発駅(途中中断区間があるので、普通バスで行きます)、故宮博物院別院がある都市です。
市街中心のロータリーには、英雄や武将の像が建っていることが多いのですが、嘉義市は中心のロータリーには野球選手の像が建っています。
『KANO 1931海の向こうの甲子園』は、台湾映画です。
出演者も、ほぼ台湾人の俳優です。
ストーリーは、昭和19年(1944年)、錠者大尉ら大日本帝国陸軍の将校たちは、南方の戦場へ向かうために台湾の基隆駅から、台湾南部へ向かっていたところからはじまります。
錠者大尉は同行者に「嘉義に着いたら起こしてくれ」と言って、仮眠をとります。
錠者大尉は、昭和6年夏の甲子園の札幌商業のエースでした。
そこで回想シーンに戻ります。
嘉義農林野球部は連敗続きでしたが、新任監督として迎えられた日本人の近藤兵太郎によるスパルタ式訓練により強くなりました。
守備に長けた日本人、打撃に長けた漢人、足の速い高砂族の選手たちのバランスの良いチームになりました。
当時、台湾代表として全国中等学校優勝野球大会へ出場するのは、決まって日本人のみで構成された台北一中や台北商業でしたが、嘉義農林は台湾地区大会で優勝して甲子園に行きます。
嘉義農林は、初戦の対神奈川商工戦では、3-0の完封に抑え一躍注目チームとなります。
甲子園のフェンス直撃弾をはなった日本初の選手の活躍もありました。
マスコミからの取材を受けた嘉義農林の選手たちには当初「日本人の子は手を挙げて」「日本語は理解できるのか」等と偏見の眼差しが向けられます。
しかし、近藤監督は民族を問わず「同じ球児だ」と反論して生徒たちを守り、マスコミも、自分たちの程度の低さを痛感して恥じ入る姿をみせます。
準々決勝は、錠者大尉がピッチャーで4番の札幌商業戦との戦い、19-7で圧勝します。
準決勝の対小倉工業戦も10-2で圧勝します。
嘉義農林を応援するファンも増え決勝戦では超満員の観衆が甲子園に詰め掛けます。
決勝の相手は中京商業で、夏の甲子園大会で3連覇の偉業を達成した吉田正男選手に抑えられ敗退します。
嘉義農林の最後まで諦めない奮闘ぶりは日本と台湾のそれぞれの人々に強い印象を残し、試合が終わってから、健闘をたたえて「天下の嘉農」と観客席全体から響渡ります。
その後、八田與一が造った台南県の烏山頭のダムにより、いままで汲みに行っていた農業用水が流れるようになったというところで終わります。
今でも、八田與一は台湾の英雄です。
台湾のどこから来たかと問うと「阿里山の近くからきた」との答えです。
台北や高雄や花蓮くらいしか知らない他国からの旅行者が多いのでしょうね。
「チーアイは知っていますよ。中心のロータリーには野球選手の像が建っていますよね」というと驚いていました。
台湾映画「KANO」という映画をご存知ですか。
昭和6年(1931年)に台湾の嘉義農林学校野球部が、夏の甲子園出場を果たし、準優勝した実話に基づいた映画です。
「KANO」は、嘉義農林学校の「嘉農」の略です。
学校名は短縮することが多いです。
台湾制作ですが、舞台となった時代背景から、セリフの多くは日本語であり、一部に台湾語、客家語、原住民語が使われています。
日本公開は、平成27年1月24日でした。
第二次世界大戦前は、日本領である台湾、朝鮮、満州といった外地の学校も予選および全国大会に参加していました。
昭和6年夏の甲子園の出場校は以下のとおりです。
札幌商(北海道、初出場)
福岡中(東北・岩手、2年ぶり4回目)
秋田中(奥羽・秋田、7年ぶり4回目)
桐生中(北関東・群馬、2年連続3回目)
千葉中(南関東・千葉、初出場)
早稲田実(東京、3年ぶり9回目)
神奈川商工(甲神静・神奈川、3年ぶり2回目)
敦賀商(北陸・福井、7年連続7回目)
長野商(信越・長野、6年ぶり2回目)
中京商(東海・愛知、初出場)
平安中(京津・京都、5年連続5回目)
八尾中(大阪、初出場)
第一神港商(兵庫、4年ぶり5回目)
和歌山商(紀和・和歌山、初出場)
大社中(山陰・島根、10年ぶり3回目)
広陵中(山陽・広島、3年ぶり4回目)
松山商(四国・愛媛、2年連続8回目)
小倉工(北九州・福岡、2年連続2回目)
大分商(南九州・大分、初出場)
京城商(朝鮮、初出場)
大連商(満州、2年連続9回目)
嘉義農林(台湾、初出場)
京城商(朝鮮)は現在のソウル、大連商(満州)は現在の大連、嘉義農林(台湾)は現在の嘉義(チーアイ。かぎ)にありました。
嘉義市は阿里山鉄道の出発駅(途中中断区間があるので、普通バスで行きます)、故宮博物院別院がある都市です。
市街中心のロータリーには、英雄や武将の像が建っていることが多いのですが、嘉義市は中心のロータリーには野球選手の像が建っています。
『KANO 1931海の向こうの甲子園』は、台湾映画です。
出演者も、ほぼ台湾人の俳優です。
ストーリーは、昭和19年(1944年)、錠者大尉ら大日本帝国陸軍の将校たちは、南方の戦場へ向かうために台湾の基隆駅から、台湾南部へ向かっていたところからはじまります。
錠者大尉は同行者に「嘉義に着いたら起こしてくれ」と言って、仮眠をとります。
錠者大尉は、昭和6年夏の甲子園の札幌商業のエースでした。
そこで回想シーンに戻ります。
嘉義農林野球部は連敗続きでしたが、新任監督として迎えられた日本人の近藤兵太郎によるスパルタ式訓練により強くなりました。
守備に長けた日本人、打撃に長けた漢人、足の速い高砂族の選手たちのバランスの良いチームになりました。
当時、台湾代表として全国中等学校優勝野球大会へ出場するのは、決まって日本人のみで構成された台北一中や台北商業でしたが、嘉義農林は台湾地区大会で優勝して甲子園に行きます。
嘉義農林は、初戦の対神奈川商工戦では、3-0の完封に抑え一躍注目チームとなります。
甲子園のフェンス直撃弾をはなった日本初の選手の活躍もありました。
マスコミからの取材を受けた嘉義農林の選手たちには当初「日本人の子は手を挙げて」「日本語は理解できるのか」等と偏見の眼差しが向けられます。
しかし、近藤監督は民族を問わず「同じ球児だ」と反論して生徒たちを守り、マスコミも、自分たちの程度の低さを痛感して恥じ入る姿をみせます。
準々決勝は、錠者大尉がピッチャーで4番の札幌商業戦との戦い、19-7で圧勝します。
準決勝の対小倉工業戦も10-2で圧勝します。
嘉義農林を応援するファンも増え決勝戦では超満員の観衆が甲子園に詰め掛けます。
決勝の相手は中京商業で、夏の甲子園大会で3連覇の偉業を達成した吉田正男選手に抑えられ敗退します。
嘉義農林の最後まで諦めない奮闘ぶりは日本と台湾のそれぞれの人々に強い印象を残し、試合が終わってから、健闘をたたえて「天下の嘉農」と観客席全体から響渡ります。
その後、八田與一が造った台南県の烏山頭のダムにより、いままで汲みに行っていた農業用水が流れるようになったというところで終わります。
今でも、八田與一は台湾の英雄です。