2023年バックナンバー
雑記帳
「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男
ロシアのウクライナ侵攻は、うまくいっていないようです。
日本も、北方領土問題があります。
ロシアが、まず、戦争の結果、北方領土がロシア(ソ連)のものになったことを認めよと主張しています。
日本は認めるわけにいきません。
日本とソ連が戦闘をして、ソ連が勝利していれば、説明がつかないわけでもありません。
しかし、ソ連は、日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、日本がポツダム宣言を受諾して武装解除した隙をねらって、火事場泥棒的に北方領土を占領したもので「戦争の結果」とはいえません。
なお、日本は、ソ連が、北方領土だけではなく北海道も狙っていたということに留意しなければなりません。
北海道の人口が兵庫県の人口にも満たないという現状、北海道の荒廃を見ていると、まずは、北方領土より北海道を活性化させて守りを固め、ゆっくりと、北方領土の交渉をするのが賢明かと思います。
仮に、北方領土の交渉をするとすれば、歯舞、色丹だけで十分かと思います。
「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男・読売新聞編集委員、BS日テレ「深層NEWS」キャスター丸山淳一.
---引用開始---
北方領土をめぐる日本とロシアの交渉から目が離せない日々が続いている。安倍首相とプーチン大統領の首脳会談は1月22日の会談で通算25回にのぼり、早ければ6月に大筋合意を目指すというが、領土交渉の先行きは厳しいとの指摘も多い。
ロシア側はここにきて強硬な姿勢を示している。ラブロフ外相は平和条約締結の前提のひとつに「日本が第二次世界大戦の結果を受け入れること」をあげた。旧ソ連が北方4島を獲得し、領土であることをまず認めよ、ということだろう。
だが、ソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリン(1878~1953)が最初に目指した「第二次世界大戦の結果」は、北方4島ではなく、北海道の北半分だった。南樺太と千島列島でソ連軍と対峙た第5方面軍司令官、樋口季一郎(1888~1970)中将の決断がなければ、スターリンの北海道占領の野望は実現していた可能性が高い。
1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻する。11日には南樺太でもソ連軍が日本領への攻撃を始めた。スターリンはこの半年前に開かれたヤルタ会談でフランクリン・ルーズベルト米大統領(1882~1945)、チャーチル英首相(1874~1965)と秘密協定を結び、日本に参戦する見返りとして南樺太とすべての千島列島を得る了承を得ていた。
14日、日本はポツダム宣言の受諾を決め、15日に終戦の詔書が出される。第5方面軍司令官だった樋口は16日、心を平静にし、軽挙妄動を慎んで規律を乱さぬよう訓示している。大本営は同じ日、全部隊に「やむを得ない自衛行動を除き、戦闘を中止せよ。18日午後4時までに徹底するように」との命令を出した。
ところが、南樺太のソ連軍は戦いをやめず、さらに18日には千島列島でも占領作戦を開始する。千島列島北端の占守島に上陸し、戦車の砲門を外すなどして武装解除を進めていた日本軍を攻撃したのだ。
大本営の命令に従えば、18日の午後4時には完全に戦闘をやめなければならない。だが、それまでの自衛戦争は許されていた。樋口は大本営にはお伺いを立てず、独断で島を守っていた第91師団の堤不夾貴ふさき師団長に「断乎反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と命じた。
樋口の『遺稿集』には、「すでに終戦の詔書が下り、私(樋口)には完全なる統帥権が無かった。しかし、自衛権の発動に関し堤師団長に要求したところ、彼等は勇敢にこの自衛戦闘を闘った」との記述がある。濃霧で上陸に手間取っていたソ連軍を、砲火を波打ち際に集中してたたく作戦が奏功して、ソ連軍は大損害を被った。
だが、日本軍が戦闘停止期限の午後4時に攻撃の手を緩めたことで、ソ連軍は形勢を挽回する。現地の日本軍は18日午後4時でソ連側も戦いをやめると思っていたが、大本営は戦闘停止について連合国軍と何ら合意しておらず、停戦期限は「命令を出してから2日もあれば全部隊に伝わるだろう」というだけのものだった。
双方の記録では、日本軍が600~1000人、ソ連軍が1567~3000人の死傷者を出す激戦が続いた。日本軍は終始優勢を保つが、最後は停戦協定によって武装解除に応じる。降伏した日本兵は全員、シベリアに抑留され、多くの人が命を落とした。樋口は「勝者が敗者に武装解除されたのは何とも残念」と無念の思いを吐露している。
ソ連は1940年(昭和15年)の日ソ中立条約の締結交渉で、すでに樺太と千島列島を「回復すべき失地」と主張していたという(中山隆志『一九四五年夏 最後の日ソ戦』)。だが、8月15日の時点でヤルタ協定で得た領土の占領は終わっていなかった。
スターリンは是が非でも、日本が降伏文書に署名する前に占領を終え、既成事実にしたかった。18日、マッカーサー連合国軍最高司令官(1880~1964)は日本の要請を受けてソ連軍に戦闘中止を求めるが、スターリンの命令を受けていたソ連軍は要請を無視した。樋口はスターリンの野望を見抜き、独断で自衛戦争を指示したのだろう。
樋口の懸念はそれだけではなかった。大本営の戦闘停止命令が届いた17日、樋口は別の理由から自衛戦争を決意している。
「私自身はソ連が更に進んで北海道本島を進攻することがないかと言う問題に当面した。私としては相当長期にこの問題に悩んでおり、一個の腹案を持った。即すなわち、ソ連の行動如何によっては自衛戦闘が必要になろうということだ」(『遺稿集』)。
この懸念は当たっていた。ロシアに残されている当時の公文書によると、スターリンは対日参戦直前に「サハリン(樺太)南部、クリル(千島)列島の解放だけでなく、北海道の北半分を占領せよ」と命じていた(1990年12月25日 読売新聞夕刊)。樋口が北海道防衛の自衛戦争を決意した前日の16日には、トルーマン米大統領(1884~1972)に書簡を送り、留萌―釧路以北の北海道を占領させろと要求した。トルーマンはこの要求を拒否するが、その後も南樺太にいた第八十七歩兵軍団に北海道上陸のための船舶の用意を指示している。
樋口の孫で、祖父の記録を収集・研究している明治学院大学名誉教授の樋口隆一さんは、「南樺太と千島列島を短期間で占領し、前線基地として北海道になだれ込む計画だったのではないか。スターリンが欲しかったのは不凍港の釧路。記録では北半分とされているが、あわよくば北海道全島を占領しようとしたのだろう」とみている。
隆一さんによると、ソ連が対日参戦する前の1945年7月には阿南惟幾陸相(1887~1945)が突然札幌を訪れ、樋口と話し込んでいる。17日には米軍のB29が千歳空港に飛来したが、樋口はまったく驚かず、飛来を知っていた様子だったという。米軍機飛来はソ連の北海道侵攻計画に対する警告という見方もある。樋口が大本営を通じて、米軍と連携していたのかも知れない。
第5方面軍の抵抗で、スターリンの北海道占領計画は出足からつまずき、狂いが生じた。ソ連軍の作戦行動命令書では、占守島は1日で占領するはずだったが、現地で停戦協定が結ばれて日本軍が武装解除したのは23日。ソ連軍はさらに千島列島を南下するが、北千島南端の得撫ウルップ島の占領完了は31日だった。9月2日に日本は降伏文書に署名し、国際法上でも終戦が確定する。樋口が率いる第5方面軍の抵抗がなければ、ソ連軍は北海道になだれ込んでいた可能性が高い。
北海道占領を断念したスターリンは8月28日、南樺太の部隊を択捉島に向かわせ、国後島、色丹島、歯舞諸島を次々に占領した。「本来は北海道に送り込む部隊を、仕方なく腹いせのように北方4島に送ったのではないか」と隆一さんはいう。占守島のような抵抗もなく、ソ連軍は北方4島を無血占領した。スターリンは9月3日に出したソ連国民への布告で、「日本に不法に侵略されたサハリン(樺太)とクリル諸島(千島列島)を解放した」と宣言した。
樋口に野望を挫かれたスターリンは、連合国軍に対して樋口を戦犯として引き渡すように申し入れたが、マッカーサーはこれを拒否した。米軍とのパイプもあったのだろうが、背景にはユダヤ人団体が引き渡しに反対して圧力をかけたといわれている。
樋口はハルビン陸軍特務機関長を務めていた1938年(昭和13年)、ナチスに追われてソ満国境のオトポール(現ザバイカリスク)に逃げ込んできたユダヤ系ドイツ人に食料や燃料を配給し、日本政府と軍部を説き伏せて、満州国の通過を認めさせていた。
ドイツは日本に抗議し、関東軍司令部は樋口を呼び出して査問するが、樋口は参謀長だった東条英機(1884~1948)に「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」と問いかけた。東条も樋口を不問に付し、「当然なる人道上の配慮によって行った」とドイツの抗議を一蹴したという。
この逸話から、樋口は近年「もうひとりの杉原千畝(1900~86)」と呼ばれることもある。隆一さんは「祖父は合理的に物事を考える人だった。ユダヤ系ドイツ人を救ったのは、杉原のように外交官としての信念というよりも、筋が通らないことが嫌いだったからだろう」と話す。
ならば、天国から見る今の北方領土交渉はさぞ心配だろう。武力で北方4島から追い出され、故郷を奪われたまま亡くなった旧島民も多い。終戦後に最果ての占守島を守り、シベリアに送られて日本に戻れなかった兵士もいる。樋口とともにあの世から領土交渉を見つめる人々も、それぞれの「第二次世界大戦の結果」を受け入れているとは思えない。
---引用終了---
私の平成30年11月のエントリーである「ユダヤ人を助けた日本人」も同様の話を記載しています。
世界のユダヤ人が、アメリカを除いて、感謝する国として、真っ先に日本を挙げるとされています。
過去、ナチスヒトラーの迫害で命が危うい状況に追いやられた時、1万人近くのユダヤ人が日本の支援のおかげで決定的に命を助けられたからです。
このうち、外交官である杉原千畝の話は有名ですね。
第2次大戦時、リトアニア駐在日本領事代理として勤務しつつ、6000人ないし1万人に達するユダヤ難民たちに日本のビザを発給し、ユダヤ人たちが虐殺から逃れることができました。
杉原千畝は、外務省の指示を無視して、ユダヤ人にビザを発給されたとされています。
ただ、それだけでは、ユダヤ人は日本に来られません。
飛行機はなくシベリア鉄道という陸路ですから、ソ連と満州の境界を越えないといけません。
昭和12年に、日本とドイツは、日独防共協定を締結しました。つまり同盟国でした。
昭和13年(1938年)3月、ユダヤ人18名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連・満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅(現・ザバイカリスク駅)まで逃げて来ました。
樋口季一郎関東軍中将は、命をかけて極東まで避難してきたユダヤ人難民が、ビザがないマイナス30度の凍土に苦しんでいたとき、入国ビザを発給し、ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、さらには膠着状態にあった出国のあっせん、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行ない、彼らを救出しました。
その後ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、上海まで彼らを乗せる列車を手配した東亜旅行社(現在・JTB)の記録によると、満州から入国したユダヤ人の数は、1938年で245名、1939年551名、1940年には3574名まで増えたそうです。
樋口季一郎関東軍中将がユダヤ人救助に尽力したのは、ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中グルジアのチフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄った際、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人から「ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた」からともいわれています。
あるいは、ユダヤ人は、他の白人と違って、日本人を非白人として差別しないということに好感を持ったからとも言われています。
この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッペントロップ外相からの抗議文書が日本に届きました。
樋口季一郎関東軍中将は、関東軍司令官植田謙吉大将に、みずからの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東条英機中将と面会した際に「ヒトラーのおさき棒を担いで弱いものいじめをすることは正しいと思いますか」と発言し、この言葉に理解を示した東条英機中将は、樋口中将を不問としました。
その後、ドイツからの再三にわたる抗議も、東条英機中将は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴したそうです。
樋口季一郎関東軍中将は、参謀本部を経て、北海道札幌に本部を置く北部地域の防衛司令官として赴任しました。
ソ連は、1945年8月9日、日ソ中立条約の一方的破棄をして、日本に宣戦布告をしてきました。
ソ連は、最初から「ヤルタ協定」をやぶって、北海道本土の占領を狙っていました。
北海道上陸部隊や艦船もそろえていました。
1945年8月11日、ソ連軍による南樺太占領作戦を開始し、8月18日、ソ連軍が千島列島北端の占守(しむかっぷ)島に侵攻しました。
日本政府の機能が麻痺した状態で、樋口季一郎司令官は独自の判断で、一戦不辞の覚悟で戦いに出る決断を下します。
樋口季一郎司令官は、独自の判断で、北方地域に散らばった日本軍を急いで再整備し、ソ連軍の大々的な攻勢に対抗して戦いました。
占守島の攻防は、8月24日まで続き、ソ連は出鼻をくじかれます。
ソ連が、北海道本土にまで侵攻できなかったのは、樋口季一郎中将が、日本が降伏し、日本政府の機能が麻痺した状態にもかかわらず、ソ連の攻撃に反撃し抵抗したからといわれています。
そして、樋口季一郎中将の決断がなければ、千島列島は、容易に陥落し、ソ連軍は、北海道に侵攻し、占領したともいわれています。
激怒したソ連は、樋口中将を戦犯と指定して、日本を軍政統治していた米国に対して、身柄を引渡すよう要求しました。
しかし、マッカーサーはソ連のこの要求を断固として拒否しました。
マッカーサーが拒否した理由ですが、当時ニューヨークに本部を置いていた世界ユダヤ協会が、米国防総省に助命嘆願を働きかけ、戦犯リストから外させたというエピソードがあります。
また、杉原千畝とともに、樋口中将の名がゴールデンブック(ユダヤ民族が大切にする聖典で、ユダヤ民族出身の世界的人物名を記載したもの)に刻まれ、日本イスラエル協会から名誉評議員の称号を贈られています。
東京裁判では、日本軍の核心要職にあった主要指揮官であったにもかかわらず、樋口中将は、取調べも受けませんでしたし、裁判にもかけられず、余生を暮らし、天命を全うしています。
A級戦犯になるかならないかなどは、その程度の違いでした。
また、ユダヤ人救出では、外交官である杉原千畝が有名なのに、樋口季一郎中将が知られていないのは、軍人であったという理由からでしょう。
何か、不公平な気がします。
日本も、北方領土問題があります。
ロシアが、まず、戦争の結果、北方領土がロシア(ソ連)のものになったことを認めよと主張しています。
日本は認めるわけにいきません。
日本とソ連が戦闘をして、ソ連が勝利していれば、説明がつかないわけでもありません。
しかし、ソ連は、日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、日本がポツダム宣言を受諾して武装解除した隙をねらって、火事場泥棒的に北方領土を占領したもので「戦争の結果」とはいえません。
なお、日本は、ソ連が、北方領土だけではなく北海道も狙っていたということに留意しなければなりません。
北海道の人口が兵庫県の人口にも満たないという現状、北海道の荒廃を見ていると、まずは、北方領土より北海道を活性化させて守りを固め、ゆっくりと、北方領土の交渉をするのが賢明かと思います。
仮に、北方領土の交渉をするとすれば、歯舞、色丹だけで十分かと思います。
「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男・読売新聞編集委員、BS日テレ「深層NEWS」キャスター丸山淳一.
---引用開始---
北方領土をめぐる日本とロシアの交渉から目が離せない日々が続いている。安倍首相とプーチン大統領の首脳会談は1月22日の会談で通算25回にのぼり、早ければ6月に大筋合意を目指すというが、領土交渉の先行きは厳しいとの指摘も多い。
ロシア側はここにきて強硬な姿勢を示している。ラブロフ外相は平和条約締結の前提のひとつに「日本が第二次世界大戦の結果を受け入れること」をあげた。旧ソ連が北方4島を獲得し、領土であることをまず認めよ、ということだろう。
だが、ソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリン(1878~1953)が最初に目指した「第二次世界大戦の結果」は、北方4島ではなく、北海道の北半分だった。南樺太と千島列島でソ連軍と対峙た第5方面軍司令官、樋口季一郎(1888~1970)中将の決断がなければ、スターリンの北海道占領の野望は実現していた可能性が高い。
1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻する。11日には南樺太でもソ連軍が日本領への攻撃を始めた。スターリンはこの半年前に開かれたヤルタ会談でフランクリン・ルーズベルト米大統領(1882~1945)、チャーチル英首相(1874~1965)と秘密協定を結び、日本に参戦する見返りとして南樺太とすべての千島列島を得る了承を得ていた。
14日、日本はポツダム宣言の受諾を決め、15日に終戦の詔書が出される。第5方面軍司令官だった樋口は16日、心を平静にし、軽挙妄動を慎んで規律を乱さぬよう訓示している。大本営は同じ日、全部隊に「やむを得ない自衛行動を除き、戦闘を中止せよ。18日午後4時までに徹底するように」との命令を出した。
ところが、南樺太のソ連軍は戦いをやめず、さらに18日には千島列島でも占領作戦を開始する。千島列島北端の占守島に上陸し、戦車の砲門を外すなどして武装解除を進めていた日本軍を攻撃したのだ。
大本営の命令に従えば、18日の午後4時には完全に戦闘をやめなければならない。だが、それまでの自衛戦争は許されていた。樋口は大本営にはお伺いを立てず、独断で島を守っていた第91師団の堤不夾貴ふさき師団長に「断乎反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と命じた。
樋口の『遺稿集』には、「すでに終戦の詔書が下り、私(樋口)には完全なる統帥権が無かった。しかし、自衛権の発動に関し堤師団長に要求したところ、彼等は勇敢にこの自衛戦闘を闘った」との記述がある。濃霧で上陸に手間取っていたソ連軍を、砲火を波打ち際に集中してたたく作戦が奏功して、ソ連軍は大損害を被った。
だが、日本軍が戦闘停止期限の午後4時に攻撃の手を緩めたことで、ソ連軍は形勢を挽回する。現地の日本軍は18日午後4時でソ連側も戦いをやめると思っていたが、大本営は戦闘停止について連合国軍と何ら合意しておらず、停戦期限は「命令を出してから2日もあれば全部隊に伝わるだろう」というだけのものだった。
双方の記録では、日本軍が600~1000人、ソ連軍が1567~3000人の死傷者を出す激戦が続いた。日本軍は終始優勢を保つが、最後は停戦協定によって武装解除に応じる。降伏した日本兵は全員、シベリアに抑留され、多くの人が命を落とした。樋口は「勝者が敗者に武装解除されたのは何とも残念」と無念の思いを吐露している。
ソ連は1940年(昭和15年)の日ソ中立条約の締結交渉で、すでに樺太と千島列島を「回復すべき失地」と主張していたという(中山隆志『一九四五年夏 最後の日ソ戦』)。だが、8月15日の時点でヤルタ協定で得た領土の占領は終わっていなかった。
スターリンは是が非でも、日本が降伏文書に署名する前に占領を終え、既成事実にしたかった。18日、マッカーサー連合国軍最高司令官(1880~1964)は日本の要請を受けてソ連軍に戦闘中止を求めるが、スターリンの命令を受けていたソ連軍は要請を無視した。樋口はスターリンの野望を見抜き、独断で自衛戦争を指示したのだろう。
樋口の懸念はそれだけではなかった。大本営の戦闘停止命令が届いた17日、樋口は別の理由から自衛戦争を決意している。
「私自身はソ連が更に進んで北海道本島を進攻することがないかと言う問題に当面した。私としては相当長期にこの問題に悩んでおり、一個の腹案を持った。即すなわち、ソ連の行動如何によっては自衛戦闘が必要になろうということだ」(『遺稿集』)。
この懸念は当たっていた。ロシアに残されている当時の公文書によると、スターリンは対日参戦直前に「サハリン(樺太)南部、クリル(千島)列島の解放だけでなく、北海道の北半分を占領せよ」と命じていた(1990年12月25日 読売新聞夕刊)。樋口が北海道防衛の自衛戦争を決意した前日の16日には、トルーマン米大統領(1884~1972)に書簡を送り、留萌―釧路以北の北海道を占領させろと要求した。トルーマンはこの要求を拒否するが、その後も南樺太にいた第八十七歩兵軍団に北海道上陸のための船舶の用意を指示している。
樋口の孫で、祖父の記録を収集・研究している明治学院大学名誉教授の樋口隆一さんは、「南樺太と千島列島を短期間で占領し、前線基地として北海道になだれ込む計画だったのではないか。スターリンが欲しかったのは不凍港の釧路。記録では北半分とされているが、あわよくば北海道全島を占領しようとしたのだろう」とみている。
隆一さんによると、ソ連が対日参戦する前の1945年7月には阿南惟幾陸相(1887~1945)が突然札幌を訪れ、樋口と話し込んでいる。17日には米軍のB29が千歳空港に飛来したが、樋口はまったく驚かず、飛来を知っていた様子だったという。米軍機飛来はソ連の北海道侵攻計画に対する警告という見方もある。樋口が大本営を通じて、米軍と連携していたのかも知れない。
第5方面軍の抵抗で、スターリンの北海道占領計画は出足からつまずき、狂いが生じた。ソ連軍の作戦行動命令書では、占守島は1日で占領するはずだったが、現地で停戦協定が結ばれて日本軍が武装解除したのは23日。ソ連軍はさらに千島列島を南下するが、北千島南端の得撫ウルップ島の占領完了は31日だった。9月2日に日本は降伏文書に署名し、国際法上でも終戦が確定する。樋口が率いる第5方面軍の抵抗がなければ、ソ連軍は北海道になだれ込んでいた可能性が高い。
北海道占領を断念したスターリンは8月28日、南樺太の部隊を択捉島に向かわせ、国後島、色丹島、歯舞諸島を次々に占領した。「本来は北海道に送り込む部隊を、仕方なく腹いせのように北方4島に送ったのではないか」と隆一さんはいう。占守島のような抵抗もなく、ソ連軍は北方4島を無血占領した。スターリンは9月3日に出したソ連国民への布告で、「日本に不法に侵略されたサハリン(樺太)とクリル諸島(千島列島)を解放した」と宣言した。
樋口に野望を挫かれたスターリンは、連合国軍に対して樋口を戦犯として引き渡すように申し入れたが、マッカーサーはこれを拒否した。米軍とのパイプもあったのだろうが、背景にはユダヤ人団体が引き渡しに反対して圧力をかけたといわれている。
樋口はハルビン陸軍特務機関長を務めていた1938年(昭和13年)、ナチスに追われてソ満国境のオトポール(現ザバイカリスク)に逃げ込んできたユダヤ系ドイツ人に食料や燃料を配給し、日本政府と軍部を説き伏せて、満州国の通過を認めさせていた。
ドイツは日本に抗議し、関東軍司令部は樋口を呼び出して査問するが、樋口は参謀長だった東条英機(1884~1948)に「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」と問いかけた。東条も樋口を不問に付し、「当然なる人道上の配慮によって行った」とドイツの抗議を一蹴したという。
この逸話から、樋口は近年「もうひとりの杉原千畝(1900~86)」と呼ばれることもある。隆一さんは「祖父は合理的に物事を考える人だった。ユダヤ系ドイツ人を救ったのは、杉原のように外交官としての信念というよりも、筋が通らないことが嫌いだったからだろう」と話す。
ならば、天国から見る今の北方領土交渉はさぞ心配だろう。武力で北方4島から追い出され、故郷を奪われたまま亡くなった旧島民も多い。終戦後に最果ての占守島を守り、シベリアに送られて日本に戻れなかった兵士もいる。樋口とともにあの世から領土交渉を見つめる人々も、それぞれの「第二次世界大戦の結果」を受け入れているとは思えない。
---引用終了---
私の平成30年11月のエントリーである「ユダヤ人を助けた日本人」も同様の話を記載しています。
世界のユダヤ人が、アメリカを除いて、感謝する国として、真っ先に日本を挙げるとされています。
過去、ナチスヒトラーの迫害で命が危うい状況に追いやられた時、1万人近くのユダヤ人が日本の支援のおかげで決定的に命を助けられたからです。
このうち、外交官である杉原千畝の話は有名ですね。
第2次大戦時、リトアニア駐在日本領事代理として勤務しつつ、6000人ないし1万人に達するユダヤ難民たちに日本のビザを発給し、ユダヤ人たちが虐殺から逃れることができました。
杉原千畝は、外務省の指示を無視して、ユダヤ人にビザを発給されたとされています。
ただ、それだけでは、ユダヤ人は日本に来られません。
飛行機はなくシベリア鉄道という陸路ですから、ソ連と満州の境界を越えないといけません。
昭和12年に、日本とドイツは、日独防共協定を締結しました。つまり同盟国でした。
昭和13年(1938年)3月、ユダヤ人18名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連・満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅(現・ザバイカリスク駅)まで逃げて来ました。
樋口季一郎関東軍中将は、命をかけて極東まで避難してきたユダヤ人難民が、ビザがないマイナス30度の凍土に苦しんでいたとき、入国ビザを発給し、ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、さらには膠着状態にあった出国のあっせん、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行ない、彼らを救出しました。
その後ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、上海まで彼らを乗せる列車を手配した東亜旅行社(現在・JTB)の記録によると、満州から入国したユダヤ人の数は、1938年で245名、1939年551名、1940年には3574名まで増えたそうです。
樋口季一郎関東軍中将がユダヤ人救助に尽力したのは、ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中グルジアのチフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄った際、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人から「ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた」からともいわれています。
あるいは、ユダヤ人は、他の白人と違って、日本人を非白人として差別しないということに好感を持ったからとも言われています。
この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッペントロップ外相からの抗議文書が日本に届きました。
樋口季一郎関東軍中将は、関東軍司令官植田謙吉大将に、みずからの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東条英機中将と面会した際に「ヒトラーのおさき棒を担いで弱いものいじめをすることは正しいと思いますか」と発言し、この言葉に理解を示した東条英機中将は、樋口中将を不問としました。
その後、ドイツからの再三にわたる抗議も、東条英機中将は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴したそうです。
樋口季一郎関東軍中将は、参謀本部を経て、北海道札幌に本部を置く北部地域の防衛司令官として赴任しました。
ソ連は、1945年8月9日、日ソ中立条約の一方的破棄をして、日本に宣戦布告をしてきました。
ソ連は、最初から「ヤルタ協定」をやぶって、北海道本土の占領を狙っていました。
北海道上陸部隊や艦船もそろえていました。
1945年8月11日、ソ連軍による南樺太占領作戦を開始し、8月18日、ソ連軍が千島列島北端の占守(しむかっぷ)島に侵攻しました。
日本政府の機能が麻痺した状態で、樋口季一郎司令官は独自の判断で、一戦不辞の覚悟で戦いに出る決断を下します。
樋口季一郎司令官は、独自の判断で、北方地域に散らばった日本軍を急いで再整備し、ソ連軍の大々的な攻勢に対抗して戦いました。
占守島の攻防は、8月24日まで続き、ソ連は出鼻をくじかれます。
ソ連が、北海道本土にまで侵攻できなかったのは、樋口季一郎中将が、日本が降伏し、日本政府の機能が麻痺した状態にもかかわらず、ソ連の攻撃に反撃し抵抗したからといわれています。
そして、樋口季一郎中将の決断がなければ、千島列島は、容易に陥落し、ソ連軍は、北海道に侵攻し、占領したともいわれています。
激怒したソ連は、樋口中将を戦犯と指定して、日本を軍政統治していた米国に対して、身柄を引渡すよう要求しました。
しかし、マッカーサーはソ連のこの要求を断固として拒否しました。
マッカーサーが拒否した理由ですが、当時ニューヨークに本部を置いていた世界ユダヤ協会が、米国防総省に助命嘆願を働きかけ、戦犯リストから外させたというエピソードがあります。
また、杉原千畝とともに、樋口中将の名がゴールデンブック(ユダヤ民族が大切にする聖典で、ユダヤ民族出身の世界的人物名を記載したもの)に刻まれ、日本イスラエル協会から名誉評議員の称号を贈られています。
東京裁判では、日本軍の核心要職にあった主要指揮官であったにもかかわらず、樋口中将は、取調べも受けませんでしたし、裁判にもかけられず、余生を暮らし、天命を全うしています。
A級戦犯になるかならないかなどは、その程度の違いでした。
また、ユダヤ人救出では、外交官である杉原千畝が有名なのに、樋口季一郎中将が知られていないのは、軍人であったという理由からでしょう。
何か、不公平な気がします。