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雑記帳

「我が国の高齢者は就業意欲が高い」定年引上げの本音

 幻冬舎ゴールドオンライン・書籍『統計で考える働き方の未来-高齢者が働き続ける国へ』(筑摩書房)より一部を抜粋・再編集
 リクルートワークス研究所研究員坂本貴志

---引用開始---

 財政問題と定年問題とは密接に関わっている。
 国は法律を介して、企業において設定されるべき定年年齢に一定の条件を課している。
 雇用者をいつまで雇うかということは一義的には企業の雇用管理の問題であるはずだが、そこには国家の強い介入があるのだ。

 政府が雇用する期間の延長を強く促した要因には、とりわけ国の年金財政の悪化がある。

 定年を迎えて企業を退職した後、年金の支給開始年齢までにブランクが生じてしまえば、その時期の生活に支障が生じてしまう。
 労働者とすれば、少なくとも年金の支給が開始されるまでは企業に給与を支給してもらわねば困る。
 だから、年金財政が逼迫して年金の支給開始が遅れるのであれば、それまでの経済的な面倒は企業が見るしかない。

 実際に、過去の定年引き上げや定年後も継続して雇い入れる継続雇用制度の導入の議論は、厚生年金保険の支給開始年齢引き上げの議論と同時並行で進められてきた。

 財政の悪化を端緒に年金の支給開始年齢引き上げが検討される。
 そして、それに追随して定年年齢の引き上げ議論が行われる。本来は企業の専決事項であるはずの定年年齢が、実際には国の財政の論理で決められてきた過去があるのだ。

 厚生年金(男性・定額部分)の支給開始年齢の推移をみると、平均寿命の延伸に伴って、これまでそれは緩やかに引き上げられてきた。

 1960年までさかのぼれば、当時の年金支給開始年齢は55歳であった。これに伴い、多くの企業では定年年齢が55歳に設定されていた。
 当時の男性の健康寿命を推定するとおよそ58歳となる。健康寿命はあくまで推計値ではあるが、1960年時点での健康寿命と定年年齢の差は3歳程度しかなかったとみられる。

 さらに、定年年齢が設定されているのは雇用者であるが、1960年当時、自営業者の比率は22.7%。
 現在の自営業者比率である7.9%と比べてかなり高かった。引退年齢が存在しない自営業者が今よりも一般的な働き方として浸透していたのである。

 つまり、かつての日本には、働けなくなるまで働くことが当たり前である社会が確かにあったのだ。

 しかし、健康である限り働き続けるという過去の常識は、時代が移り変わるにつれて、消失する。
 年金の支給開始年齢は1974年に60歳と規定されて以降、そのままで据え置かれる長い期間があったのだ。
 1974年から2000年まで長期間にわたって年金の支給開始年齢が60歳で維持されていた。

 この結果として、2000年には健康寿命が68.9歳まで延伸して働くことができる年齢がかなり上がっていたにもかかわらず、多くの企業の定年年齢は60歳に据え置かれるという事態が発生してしまった。

 年金支給開始年齢が据え置かれた時期は、高度経済成長期の終わってからバブル経済が終焉するまでの時期と重なっており、まさに日本経済の黄金期に当たる。
 この間、政府は年金財政の悪化に先手を打つために年金の支給開始年齢の引き上げを画策するも、日本経済が好調に沸くなかで政府の要求が国会を通ることはなかった。

 この時期の年金改革の遅れが、定年後に健康に過ごせる長い時間を生みだしたのである。
 年金改革が遅れるなか、やがて人々の間には、定年後には悠々自適な老後が待っているものだという淡い期待が形成されることになる。

 労働者が社会に労働という奉仕を行う代わりに、社会は労働者に幸せな老後を保障する。
 こうした慣習は年金改革の遅れによって生み出されたものなのだ。
 そして、年金改革の遅れは現在に至るまでの年金財政にも致命的な影響を与えることになった。

 当時は、日本がここまで少子高齢化に悩まされることを誰も予想していなかった。しかし、今ではそれが現実となってしまっているのである。政府が生涯現役を叫ぶのは、この時の遅れを取り戻そうとしているからでもあるのだろう。

 年金制度と定年制度は一体不可分なものとして、これまで議論されてきた。法律上、国が定年問題に正式に介入するようになったのは1986年が最初である。

 1986年、同年以前に存在していた「中高年齢者等の雇用の促進に関する特別措置法」は、「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」(高年齢者雇用安定法/高齢法)に名称変更された。このタイミングで60歳定年が企業の努力義務とされ、法律上、定年制度に関する条項が初めて規定されることになった。

 形式的には改正法による一部改正であるものの、実質的には高年齢者雇用安定法という新法を立法したに等しい措置だったと労働政策研究・研修機構労働政策研究所所長の濱口桂一郎氏は述べている。このあと、1990年の改正で65歳までの再雇用が努力義務化され、1994年の60歳定年の義務化などを経て、2004年の高齢法の改正によって、65歳までの雇用が一定の例外規定を置きつつも原則として義務化されることになる。

 65歳までの雇用義務化に至るまで累次の制度改正を行ってきた日本政府。政府は当時その必要性をどのように説明していたのか。たとえば、当時の労働大臣はその必要性を以下のように述べている。

 我が国の高年齢者は少なくとも65歳くらいまでは働くことを希望しているなど就業意欲が極めて高く、また、今後、若年・中年層を中心に労働力人口が減少に転ずること等から、我が国の経済社会の活力を維持し、高年齢者が生きがいを持って暮らすことのできる社会を築くためには、65歳に達するまでの雇用機会を確保することが喫緊の課題となっております。
 このため、今後は、企業における65歳に達するまでの継続雇用制度の導入を促進するとともに、高年齢者がその希望に応じ多様な形態により就業し得るための施策を推進していくことが求められているところであります(1994年6月1日の衆議院労働委員会、鳩山邦夫労働大臣による高年齢者等の雇用の安定等に関する法律の一部を改正する法律の提案理由から)。

 「就業意欲が高い高齢者」が「生きがいをもって暮らすため」に65歳まで継続雇用することができる機会を設ける。これが、高齢者の就労に対して政府が公式に表明していた立場といえよう。そして、就業意欲が高い高齢者のために生きがいをもって暮らす環境を用意するという政府の立場は、現在でもそのまま引き継がれている。

 しかし、ここまでの経緯からわかる通り、これは日本社会で起きている実態に即した考え方とはとても言えない。意欲ある高齢者のために雇用の機会を用意するという政府の立場は、あくまで建て前なのである。

 国家財政が悪化の一途をたどるなか、年金保険の持続可能性を担保するためには、年金の支給開始年齢を引き上げざるを得ない。厚生労働省や財務省をはじめとする霞が関の本音は、国家のために人々に高齢になってでも働いてもらわねば困る、ということに尽きるのである。

 2012年の高齢法の改正で、65歳以上への定年引き上げか65歳までの希望者全員への継続雇用制度の適用、あるいは定年廃止の3つの措置のうちのいずれかの措置の実施が完全義務化されることになる。

 日本社会はいつの間にか65歳まで働くことが当たり前の世の中になってしまった。
 そして、この65歳という年齢も今後さらに引き上げられようとしている。本音を隠したまま、霞が関が作り上げてきた日本の定年制度。
 いま、その欺瞞に多くの人が気づき始めている。

---引用終了---

「 1960年までさかのぼれば、当時の年金支給開始年齢は55歳であった。これに伴い、多くの企業では定年年齢が55歳に設定されていた。
 当時の男性の健康寿命を推定するとおよそ58歳となる。健康寿命はあくまで推計値ではあるが、1960年時点での健康寿命と定年年齢の差は3歳程度しかなかったとみられる。」という部分は感慨深いですね。

 年金支給開始から健康寿命まで3年間+健康寿命から死亡までが、年金支給期間なら、年金は実質破綻しないかもしれません。
 ちなみに、現在なら、男性の健康寿命73歳として70歳支給でしょうか。

 なお、購入しての一読をおすすめします。


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