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2020年バックナンバー

雑記帳

日清戦争で沈没した巨大軍艦の調査進む

 日清戦争が、1894年~95年までありました。
 黄海海戦が有名ですね。
 
 清が、ドイツ製の最新式戦艦「鎮遠」と「定遠」を保有していましたが、清軍の戦意がなかったため、あっさり、日本帝国海軍が勝利したといわれている戦いです。
 
 下関条約1条に「淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ」として、李氏朝鮮は、清の属国から独立国になりました。
 
 中国国家文化財局水中文化遺産保護センターは、令和2年2月19日、威海市の劉公島近海で重さ約18トンの「定遠」の装甲鉄板を引き揚げることに成功したと発表ました。
 
 鉄板を覆っていた海底の泥をしゅんせつし、ワイヤで釣り上げました。
 
 保護センターは「鉄板は船体構造を分析する重要な鍵となり、中国海軍や日清戦争(中国では「甲午」戦争といいます)の歴史研究に大いに役立つ」と意義を強調します。
 
 黄海海戦の日本の戦力は、以下のとおりです。
 巡洋艦8
 コルベット2
 砲艦、他
 
 清の戦力は、以下のとおりです。
 戦艦2
 巡洋艦10
 水雷艇
 
 黄海海戦の日本の損害は、以下のとおりです。
 大破 巡洋艦「松島」、コルベット艦「比叡」、砲艦「赤城」、仮装巡洋艦「西京丸」、その他、巡洋艦「吉野」などで損傷あり
 戦死 坂元八郎太少佐以下298名が戦死
 被弾131発
 
 黄海海戦の清の損害は、以下のとおりです。
 撃沈 巡洋艦「経遠」「致遠」「超勇」
 座礁による損失 巡洋艦「広甲」「揚威」
 その他残存艦艇も多くが損害を被る 
 戦死 林永升、鄧世昌以下700名以上
 被弾 700発以上
 
 日本には、当時戦艦はなく、旗艦は、防護巡洋艦・松島でした。
 ちなみに、松島と同型艦である防護巡洋艦・浪速は、東郷平八郎艦長(当時、大佐)の指揮下で活躍しました。
 
 西南の役などの内乱に終止符が打たれ、国力増強に力を入れだした日本政府は海外への進出をはじめ、台湾や朝鮮などをめぐって清と対立します。
 
 当時、清国は明治18年にドイツで作られた東洋一の2隻の巨大戦艦を含む海軍を持っていました。
 
 巨大戦艦は、25cmの分厚い装甲と30cm砲という巨砲を装備した「定遠」と「鎮遠」です。 
 
 これに対抗するにしても、予算のない日本は、まず巨大戦艦の大砲よりも少しだけ人きい32cmの大砲を1つだけ積んだ中型の巡洋艦3隻を作っています。
 明治24~25年にフランスで「厳島」と「松島」、明治27年に横須賀工廠で「橋立」が作られています。
 明治19年にイギリスで作られた巡洋艦「浪速」は、日本海軍初の近代的な巡洋艦であるとともに、世界でも最新鋭の巡洋艦でした。というのは、当時のイギリスは、新しい枝術については外国からの発注艦で試してみるという方針だったためです。 
 
 普通に戦力だけを考えれば、清の勝利でしょうね。
 
 清は分厚い装甲を施した「定遠」「鎮遠」という巨艦を有していましたが、誕生間もない日本海軍には軽装甲の巡洋艦しかなく、その装備する砲では両艦を撃沈する事は不可能でした。
 
 しかし日本海軍は速射砲による砲弾を雨霰と浴びせ、優速を利して運動することにより清国艦隊を撃破しました。
 
 「沈める事は出来ないが戦えなくすることはできる」で十分ですね。
 
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