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2020年バックナンバー

雑記帳

海を渡った屏風 奇跡の物語紡ぐ

 大阪市は、平成28年11月19日、豊臣秀吉が築いた初代大坂城の石垣を1日限定で公開しました。
 
 現在の大阪城の真下に埋まっている豊臣秀吉が築いた初代大坂城の石垣は、普段は非公開ですが、NHK大河ドラマ「真田丸」などで関心が高まっており、限定公開を決めました。
 
 現在の大阪城は、1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城ではありません。豊臣秀吉が構築した大阪城は、二代将軍徳川秀忠によって、すべて除去されたうえで、「盛り土」(平成28年の流行語大賞の候補の1つです)をされ(ですから、豊臣秀吉が築いた初代大坂城の石垣が、地下に埋没指しています)、新しく現在の大阪城が築かれました。
 
 徳川家は、豊臣秀吉が築いた初代大坂城に関する書物をすべて破棄しましたから、豊臣秀吉が築いた初代大坂城がどのようなものであったかは、不明のままでした。

  「海を渡った屏風 奇跡の物語紡ぐ」(リンク切れ)
 
---引用開始---
 
 オーストリア南部のグラーツ市郊外、世界遺産のエッゲンベルク城。バロック様式の装飾に彩られた城内を奥に進んだところに絵を飾った部屋がある。
 
 薄暗い室内を見渡すと、西洋絵画に交じって、金箔の絵が壁に計8枚、あちこちに埋め込まれている。
 
 もともと8枚はひとつながりの屏風である。描かれているのは豊臣秀吉が築いた絢爛豪華な大坂城と城下町のにぎわい。350年ほど前に遠く日本から海を渡り、城にたどり着いたとは誰も想像できないだろう。
 
 分割された豊臣期大坂図の屏風絵が壁に埋め込まれた部屋。西洋絵画と交互にパネルのように飾られている=オーストリア・エッゲンベルク城で、その事実が明らかになったのはほんの7年前だ。
 
 一部で色の剥落が見つかり、2000年、ウィーンの専門家に修復を依頼。壁から外したところ、木枠や和紙から日本の屏風と判明した。
 
 日本史に詳しいドイツ人の研究者を探し出し、調査を頼むと、やはり、と言うべきか、期待以上の報告が返ってきた。
 
 ドイツ人研究者が写真を携え、相談したのが関西大・大阪都市遺産研究センターの高橋隆博さんらだった。
 「初めて見た時、驚きで体が凍りつくような衝撃だった」と高橋さんは振り返る。
 
 その後、エッゲンベルク城などとの共同研究で、ある物語が浮かび上がってきた。
 
 屏風を運んだとみられるのは1640年代、長崎から出航したオランダ船。この時期、屏風を積んで欧州に向かった船は3隻あり、過酷な航海をくぐり抜けたのは1隻だったという。
 
 屏風は運良く到着したのだろう。1600年代後半、芸術品を収集していた3代目エッゲンベルク城主の手に渡った。
 
 城には1754年に絵を8分割し、部屋の壁の装飾としたとの記録が残る。このことが再び幸運をもたらす。
 
 第2次大戦中、城はソ連軍が占領、所蔵品は破壊や略奪の憂き目にあったが、壁に埋め込まれた屏風は、気付かれなかったのか、取り外すのが面倒と思われたのか、無傷で残った。
 
 「まさに奇跡的に残った絵です」。大阪城天守閣研究主幹の北川央さんも驚く。
 
 8枚の絵には、秀吉が形づくった夢の世界が広がる。金色の雲の合間に見えるのは、晩年に開発した商人の町・船場、自ら参拝した住吉大社や四天王寺、船の行き交う淀川、旅人や民衆でにぎわう街道......。そして、欧州の宣教師が驚嘆したという5層天守を中心とした巨大な城だ。「焼失前の豊臣期最後の繁栄が正確に写し取られている」と北川さんは言う。
 
 修復に伴う偶然の発見がなければ、秀吉の時代の風景がよみがえることはなかった。
 
 いまその部屋では、これまで訪れることのなかった日本人観光客の姿も見られる。
 
 エッゲンベルク城と大阪城も、共同研究の縁で2009年、友好城郭提携を締結。今後も調査と交流を続ける考えだ。
 
---引用終了---
 
 グラーツは、オーストリアの首都ウィーンに次ぐ第二の都市です。
 
  エッゲンベルク城は、グラーツの中央駅から、市電を乗換えてしばらく走った近郊にあります。
 
 私がいったときは、たまたま入場料無料の日でした。
 
 ガイドツアーがあるのですが、私が城についてから次のガイドツアーは英語ではなくドイツ語ガイドツアーでした。
 
 係員から「30分してからスタートする英語のガイドツアーに参加したら」といわれましたが、「英語でもドイツ語でも構わない。どうせ、英語もドイツ語もわからない」からとドイツ語で答えると、係員が苦笑していました。
 
 屏風は「折りたたみスクリーン」と呼ばれるようです。
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