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朝鮮通信使

 平成29年10月31日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、「世界の記憶」(世界記憶遺産)に、江戸時代の朝鮮王朝が派遣した外交使節「朝鮮通信使」に関する資料の登録を認めました。
 
 日本と韓国の意見が一致して登録となったのですが、日本では、徳川幕府の代替わりごとの朝貢と考えているのに対し、韓国は、朱子学などの文明を伝えた使節と考えています。
 
 そもそも、朝鮮通信使とは、朝鮮国王から遣わされた使者のことで、広い意味では、室町時代から江戸時代にかけて日本を訪問した使者すべてを指し、狭い意味では、豊臣秀吉による文禄・慶長の役ののち、つまり、李氏朝鮮が、江戸時代に日本を訪問した使者を指します。
 
 狭い意味での朝鮮通信使(江戸時代)は、文禄・慶長の役で朝鮮から日本へ渡った技術者の帰国目的の通信使が起源となっています。
 
 もっとも、日本は技術者によい待遇で接しますが、当時の朝鮮(今の韓国も、技術者軽視傾向にあります)は技術者の待遇が悪いため、日本から朝鮮に戻ろうとする人は限られていたそうです。
 
 その後、将軍の代替わりの奉祝の命を帯びた通信使(朝貢使)というものに変化していきました。
 
 大名の参勤交代は、行列を横切ると無礼討ちがゆるされた時代ですが、朝鮮通信使は、ある意味「見せ物」扱いだったようです。
 
 モデル・ルートとしては、往路は、ソウル(漢城)・出発→釜山→対馬・厳原→壱岐→下関→(瀬戸内海)→大阪→京都→彦根→名古屋→浜松→三島→小田原→藤沢→東京(江戸)・到着で、復路は、逆コースです。
 
 金仁謙という書記がしるした「日東壮遊歌」(1763年から1764年)が、当時の様子をあらわしています。
 
 「書記」とは日本滞在中に詩文をもって通信使のもとへやってくる日本人に詩で対応する職務でした。
 
 大坂、京都、江戸の絢爛豪華さをうらやむとともに、「この豊かな金城湯池が倭人の所有するところとなり、帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである」「この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ」と記載されています。
 
 韓国の考え方は、全く進歩せず、今も昔も変わらないということですね。
 
 戦後の日本人のように、テレビでアメリカの都市や家庭の電化製品などをみて「これは、かなうはずない」と思うのでしょうが、なぜ、そう思わないのかが不思議です。
 
 また、同書には、対馬で食べたサツマイモの美味しさに感激し、種芋を乞うてサツマイモを朝鮮半島に持ち帰ったり、淀川では揚水水車の機構の見事さに感服し「見習ってつくりたいぐらいだ」とも書いています。
 水車は、当時の日本と李氏朝鮮の技術の差をしめす象徴的なものです。
 
 古今東西、国家の繁栄は、文明・産業・民度によります。オイルマネーの国々は例外ですが・・ 
 
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