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2018年バックナンバー

雑記帳

京都精華大学 新学長にマリ共和国出身のウスビ・サコ氏が就任

 毎日新聞・平成30年3月30日・ウスビ・サコさん=京都精華大学の学長に就任する
 

 マリ共和国出身のウスビ・サコが国内初のマンガ学部など芸術・人文系の5学部を設ける京都精華大(京都市左京区)の学長に就任しました。

 

 西アフリカ・マリ共和国生まれのイスラム教徒です。

 

「人種や宗教に関係なく、人はみな違って当たり前。違いを認識しながら共存できる多様性と国際性を育みたい」と力を込めています。

 平成30年5月16日・東洋経済オンライン・アフリカ人が日本で「大学長」になれた理由
 

---引用開始---

 

 数百人ほどの中国人学生が、中国人1人がアフリカ人によって重傷を負わせたという噂に応え、「キル・ザ・ブラック・デビルズ(黒い悪魔を殺せ)」と唱えながらアフリカ人学生寮になだれ込んだ。命の危険を感じたサコ教授ら留学生たちは、北京に戻ってそれぞれの大使館で保護してもらおうと、南京の鉄道駅に急いだ。

 

 恐ろしい事件だった。その後アフリカ人の学生のほとんどが安全のためキャンパス内にとどまった。中国人の学生はもっと身近により深刻な問題を抱えていた。その問題というのが自らの政府だったのだ。天安門広場の虐殺が起こったのはこの事件のほんの数カ月後だった。天安門事件の際には、多くの学生が中国軍の手によって命を落とした。

 

 東南大学での5年間に、サコ教授は学士号を取得したばかりでなく、大学院に進み、研究も行っていた。だが、同教授は、中国は自分がこれから求めている研究を進めていく場所ではないという結論に達した。中国での学生時代が終わったので、キャリアや将来を築くことができる場所を探した。日本にすることにした。

 

 そして、サコ教授は再び他国に移り、会話もできなければ、文化も知らない国でまた一から道を切り開くことになった。そして1991年から8年間を日本語の勉強に費やすと同時に、京都大学大学院建築学専攻で工学の修士号と博士号も取得した。2001年には、京都精華大学に人文学部の教授として採用され、建築以外にも現地調査手法や都市デザインといった数多くの教科を指導した。

 

 その後、順調に出世の階段を上って2013年には学部長に就任。ここにたどり着くまでに乗り越えなければならないハードルは少なくなかった。特に外国人にとっては大変なことだった。だが、サコ教授には、中国で築かれ、日本で磨かれた一連の鉄則があり、これが支えとなっていた。

 

 この鉄則の第1番かつ最も重要なルールが、「日本人と同じレベルで競争する」というものだった。

 

 「日本では最初、私たち留学生には機会均等など与えられませんでした」とサコ教授は語る。「ですが、私はそれを意識しないように努めた。京都大学の学生時代にも、クラスメートにはアフリカ人だけでなく中国人や韓国人もいました。そして留学生みんなが日本人と距離を置いているように見えました。


 日本人はこれを見て、彼らは『他の人』なんだなと思っていたのです。なので、自分はそういう外国人と思われないようにしよう、と決めたのです。だから私は日本語だけで会話しました。研究室での研究も、講義やレポートも、すべて日本語でやりました」。

 

 このやり方で、サコ教授は中国でもそうしたように、自ら日本と世界との懸け橋としての地位を確立した。

 

 「海外には行きたくない、外国人から学べることは何もないから、みんな日本に来て日本人から学んでいる、と言っていた日本人のクラスメートがいました。ですが私は、自分の所属研究室で研究リーダーも務めていました。

 

 そして自分の指導者としての役割を使って日本人の目を外の世界へと広げたのです。ほかのアジア諸国への旅行の段取りをつけました。ベトナムのような、国民が苦労しながら一生懸命働いて発展しようとしているのを見ることができる国々です。研究室の中では決して見ることのできないものです。これにはたくさんのクラスメートが衝撃を受け、『ウスビと一緒に海外に出ればたくさんのことが学べるぞ!』と言う人が増えるようになったのです」

 

 「マリにも連れていきました。帰る頃までには、みんな何か大事なことを学んでいました。国が発展国か後進国といった問題ではなく、人間の真の姿に関することです。ほかの人間から学び、感じることができるようなことです。日本社会が忘れがちなことであり、思いきって日本の外に出てはじめて学べることです」

 

 こうした視野を広げたり、よそ者扱い化を止める努力が功を奏し始めた。

 

 「間もなくして、自分がもはやそういった外国人として扱われていないことに気付きました。日本人は私を日本人として扱ってくれるようになっていたのです」と、サコ教授は振り返る。「子どもの頃のテレビ番組の話とか、他の外国人の批判とかについて話してくることもありました。私が日本人ではないことを完全に忘れてしまって」。


 京都精華大の教員の一員として、そして日本人とは日本語で流暢に、外国人とは効果的に対話することができる個人として、サコ教授は一種の文化橋脚の人間版となった。同僚にとって、外の世界の知識を求める際には期待できるし、外国人のスタッフや学生、訪問者に対応する際には仲介役や大使として頼りにできる人物となったのである。

 

 日本語、中国語、フランス語、英語、そしていくつかのアフリカ言語に流暢なことが、この地位をさらに高めるのに役立った。そして、気が付くと、非常に影響力のあるカリキュラム委員会を含む、各種の委員会委員に任命されていた。

 

 それからまもなく、サコ教授は所属学部の将来を検討するため、同僚を集って特別委員会をつくった。そして、同委員会のメンバーと共に教務委員会の委員にもなり、学部運営に影響力を持つメンバーをカリキュラム委員会に配置することができるようにもなった。

 

 同じメンバーで力を合わせて将来構想を練り、日本のニーズに最も適した学習コースを設計する作業も始めた。学部長に任命される頃には、サコ教授はより上の地位に就く態勢を整えていた。そして実際、学校全体を運営する機会が訪れた時には、サコ教授はその責務を負うだけの力量を備えていた。とはいえ、ここからが大変だった。

 

 まず、候補者になるには、教職員または大学職員の推薦が最低10人分必要だった。推薦の前には、任意ではあるが討論会が開かれることになっていた。教職員全員の前で、もちろん日本語でやらないといけない。

 

 推薦されると、今度は全学生の前で2度目の討論会が開かれた。テーマには、大学の将来に関するビジョンや、自分のアイデアをどのように実行に移すか、といったものが含まれていた。ほかの2人の候補者はどちらも日本人で、同大学での勤務年数も長かった。そして最終的に、サコ教授は勝利を収めることになる。しかも歴史的な波及効果をもたらす勝利だった。

 

 「これらすべてが裏付けとなり、自分は黒人やマリ人だから選ばれたわけではない、と自信を与えてくれました」とサコ教授は言う。「私が選ばれたのは、私が、ほかの候補者と同じレベルで挑戦することができたからであり、私のアイデアの方が優れていたからであり、私には変化をもたらす可能性があったからだったのです」。

 

 こうして、ウスビ・サコ教授はこの4月、同大の学長に就任した。同教授は、24年来の妻と、2人の息子と共に京都に住んでいる

 

---引用終了---

 

 日本は優秀な人は優秀と判断していることになります。
 といいますか、黒人差別はまずない国とされています。

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