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雑記帳

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磐井の乱

 福岡県八女市に、同市吉田の国史跡「岩戸山古墳」関連の文化財を展示し、市民交流の拠点施設にも活用する「岩戸山歴史文化交流館」があります。

 当該古墳は、大和王権と6世紀前半に戦って敗れた筑紫国造磐井が築いたものとされています。

 日本書紀によれば、西暦527年(継体21年。日本固有の元号は大化の改新(西暦645年)からです)6月3日、大和王権の近江毛野は、6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅(任那日本府の一部)などを回復するため、任那へ向かって出発しました。

 この計画を知った新羅は、筑紫の有力者であった磐井へ賄賂を贈り、大和王権軍の妨害を要請し、磐井は挙兵し、火の国(肥前・肥後)と豊の国(豊前・豊後)を制圧するとともに、倭国(日本)と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦しました。

 西暦528年11月11日、磐井軍とヤマト王権軍が、筑紫三井郡にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北し、筑紫国造磐井は滅びました。

 また、磐井の乱の結果、援軍を得られなかった任那日本府は、新羅に吸収されてしまったとされています。

 日本は、勝者である大和王権が統一したのであり、他の豪族は「反乱」「平定」されたということになります。

 結局は、敗者にはなったものの、大和王権による日本統一までに諸国にいた豪族は、地元では「反逆者」ではなく、大和王権に反旗を翻した「英雄」とされているそうです。

 結局、歴史は「勝者の歴史」なんですね。
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