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雑記帳

百済歴史遺跡地区

 平成27年5月4日、国連教育科学文化機関(UNESCO)の諮問機関であるICOMOSは「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」を、世界遺産に登録するようユネスコに勧告しました。
 構成資産は、八幡製鉄所旧本事務所、三池炭鉱・三池港、三重津海軍所跡、三菱長崎造船所など、岩手県釜石市から鹿児島市まで8県(11市)・23施設。わが国初の洋式産業群や近代製鉄発祥の地など内容は多岐にわたる。現役稼働施設も含まれており、世界でも珍しい遺産群として注目されています。

 お隣の某国が、文句をつけてきています。
 懲りないですね。

 ちなみに、お隣の某国も、国連教育科学文化機関(UNESCO)の諮問機関であるICOMOSが、「百済歴史遺跡地区」を、世界遺産に登録するようユネスコに勧告しています。

 百済歴史遺跡地区は、忠清南道公州市の公山城、宋山里古墳群、扶餘郡の官北里遺跡、扶蘇山城、陵山里古墳群、定林寺址、扶餘羅城、全羅北道益山市の王宮里遺跡、弥勒寺址の9カ所からなります。

 行かれた方もおられると思います。
 扶余市と光州市、ソウルからバスで行くことになります。

 「白村江の戦い」が有名ですね。
 韓国では、あまり教えていないそうですが・・

660 唐・新羅の連合軍 百済を滅ぼす
663 白村江の戦い(百済援助を企てた日本軍大敗)
668 唐により高句麗滅亡
676 唐、朝鮮を放棄 新羅の統一時代始まる

 新羅が百済に攻め込んで滅亡させ、日本にいた百済の王族が日本(倭)朝廷に救援要請をし、それに応えた日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍が激突し、日本・百済連合軍が敗北したという戦いです。

 日本は、新羅と唐の連合軍の侵攻を恐れて、九州の守りを固めました。
 元寇と並んで、日本が、歴史上、外国からの危機にさらされた希な例です。
 ただ、唐と新羅に紛争が生じたため、日本が攻められると言うことはありませんでした。


 光州市に「宋山里古墳群」があります。

 百済の武寧王の墳墓と埋葬品が展示されています。
 1971年に忠清南道公州市の「宋山里古墳群」から墓誌が出土し、王墓が特定され、発見された墓誌には「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と記載されていていますから、韓国の古代史のうちで、実存が間違いのない希なものです。

 各史書にも記載されています。

 『三国史記』(朝鮮半島に現存する最古の歴史書。1145年完成、全50巻)百済本紀・武寧王紀によれば、先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱(諱。本名)が「斯摩」(しま)、分注では「隆」と記載されています。

 『梁書』(中国の歴史書。629年完成)では「余隆」と記載されています。

 『日本書紀』(720年完成)では、武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国に人質として献上する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた」「一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した」「これが武寧王である」としています。

 また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には「百済の末多王(牟太,東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王とした」としています。

 また、継体天皇6年(513年)に、任那のオコシタリ(全羅北道鎮安郡及び完州郡)・アロシタリ(忠清北道錦山郡及び論山市)・サダ(全羅南道求礼郡)・ムロ(全羅北道鎮安郡竜潭面)の4県、継体天皇7年(514年)にコモム(全羅北道南原市)・タサ(タサ)の地をそれぞれ、倭国から百済に譲渡した。これに応えて百済は517年に、日本に送っていた博士段楊爾に代えて五経博士漢高安茂を貢上したと記載されています。

 武寧王は、人質として日本に送られた百済の昆伎王の子として佐賀で生まれということになります。

 武寧王陵は王妃を合葬した磚室墳(焼成煉瓦を積み重ねた墳墓)で、玄室には王と王妃の棺が並んでいました。
 武寧王陵は、立ち入り禁止となっていて、王陵のレプリカに入れます。

 木棺の材質が日本の近畿地方南部でしか産出しない高野槙と判明したことにより、当時の日本と百済の関係に大きな注目が集まりました。
 この他、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土しました。ちなみに、勾玉も出土しています。
 光州博物館に、勾玉も、かくさず展示されて(「曲玉」と表記されています)います。
 「勾玉をあしらった耳飾り」「勾玉の首飾り」「金飾付の大きな勾玉2点」などです。
 勾玉の材料の翡翠は、東アジアでは、秋田県(糸魚川)あたりでしかとれていないそうです。

 武寧王は、日本で生まれました。
 また、陵墓にある高野槙の棺、副葬品の勾玉は、日本からの輸入品ということになります。

 日本は、隠すことがありませんから、堂々と文章や写真が公開されています。
 ただ、韓国としては、百済王の王子が日本(倭)に人質として送られていたときの子であること、日本人(倭人)が、任那の一部を百済に譲渡したこと(任那が存在したことになります)などから、隠したい歴史であると思います。

 なお、継体天皇は、任那のオコシタリ(全羅北道鎮安郡及び完州郡)・アロシタリ(忠清北道錦山郡及び論山市)・サダ(全羅南道求礼郡)・ムロ(全羅北道鎮安郡竜潭面)の4県、コモム(全羅北道南原市)・タサ(タサ)の地をそれぞれ、倭国から百済に譲渡したとされています。
 これに応えて百済は517年に、日本に送っていた博士段楊爾に代えて五経博士漢高安茂を貢上したと記載されています。
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