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2019年バックナンバー

雑記帳

貢女

 貢女という制度をご存じでしょうか。
 

 貢女(韓国語。공녀・コンニョ)は、一般に女性を朝貢品の1つとして献上することですが、通常、朝鮮半島の国々が、中国の歴代王朝に献上していた貢女のことを指します。

 

 5世紀に新羅から中国の北魏に送ったという記録もありますが、朝鮮半島から貢女の献上が最も盛んに行われたのは高麗後期から李氏朝鮮時代にかけてでした。

 

 高麗時代の献上先は元、契丹、明であり、貢女だけでなく多くの朝貢を強いられていました。

 

 高麗時代、結婚都監を置いて140名の貢女を行い、貢女確保のために国中の婚姻が禁止され、寡婦處女(処女)推考別監という役所を設け組織的に対応していることがわかります。

 

 高麗史(朝鮮の高麗朝の史書で、朝鮮王朝 (李氏朝鮮) の世宗大王の命により鄭麟趾らが編纂にあたり、1451 年に完成した朝鮮の史書)には、以下のとおり記載されています。

 

世家第27

元宗15年(1273年)3月

「壬寅 元遣蠻子 媒聘使肖郁來中書省牒云 ”南宋襄陽府生券軍人求娶妻室 故差委宣使肖郁押官絹一千六百四十叚前去下高麗國令有司差官一同求娶施行”肖郁令選無夫婦女一百四十名 督之甚急於是置結昏都監 自是 至秋窮搜 閭井獨女逆賊之妻 僧人之女 僅盈其數怨咨大興例給一女資粧絹十二匹分與蠻子蠻子卽率北還哭聲震天觀者莫不悽」

 

世家第28

  忠烈王元年(1275年)10月

「癸未 遣僉議贊成事兪千遇如元賀正告改官制獻処女十人」

 

世家巻第28

 忠烈王2年(1276年)

「甲子 元遣楊仲信齎幣帛來爲歸附軍五百人聘妻 王遣寡婦処女推考別監正郞金應文等五人於諸道先是慶尙道屯邊官軍頭目申中書省曰: "高麗人無時乘驛致其疲弱設有他變恐不及時." 中書省移牒禁之始立剳子色應文等各受鋪馬剳子以行.」

 

 中国から貢女を選抜する使臣が1~2か月かかる貢女を選び出す期間は半島全土に婚姻禁止令が朝鮮王から下されました。

 

 13~25歳の未婚の女性が選抜対象で娘を持つ民は恐怖に震えました。

 

 朝鮮では選抜機関を設置して、明の巡察使が各地を物色した。貢女候補に選ばれると娘の顔に薬を塗り傷を付けケースや出家させるケースもあり、幼児を嫁がせることまでありました。

 

 そのため、李氏朝鮮時代には朝鮮王が「12歳以下の女子については婚姻を禁ずる」法令を下しました。

 

 李氏朝鮮3代王の太宗8年には、処女30人が選抜されたが、中国の使臣は「美しい女がいない」として罰しようとし、娘たちも指名を避けるため、障害があるかのように装い、太宗は「処女を隠した者、針灸を施した者、髪を切ったり薬を塗ったりした者など、選抜から免れようとした者」を罰する号令を下しました。

 

 世宗は、「国内の利害のみならず、外国にも関係することなので、ただ(中国皇帝の)令に従うのみ」と述べました。 

 

 ちなみに「世宗」とは、ハングルを考案したといわれる世宗大王のことで、1万ウォン札に描かれています。

 

 朝貢貿易といっても、朝鮮半島には、献上するような物品がないので、代わりに人間、とりわけ女性を献上品としていました。

 

 韓国の人は、完全に中国のしたことと、日本のしたことを混同しているようです。いずれにせよ、高麗や李氏朝鮮では、当たり前のことでした。

 

 ちなみに、魏志倭人伝には、238年に、卑弥呼が、献上品として「生口」(奴隷)10人を魏に献上したとなっています。

 

詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼
帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米
次使都市牛利奉汝所
獻男生口四人女生口六人斑布二匹二丈
以到汝所在踰遠乃遣使貢獻

 

 日本が奴隷を朝貢品としたのは、記録で残っている限り、最初で最後だそうです。

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