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2013年バックナンバー

韓国の前方後円墳

私たちの年代の教科書には、朝鮮半島に「任那(みまな)日本府」があったと記載されていました。

 厳密にいえば、「日本」という国名ではなく「倭」と呼ばれていたでしょうし、日本の学界ではかつては「任那」という呼称にかえて、昭和60年ころから、より広く「伽耶諸国」あるいは「加羅諸国」と呼ばれることが一般的となっているそうです。
 「伽耶(加羅)諸国へのヤマト王権」ということになりますね。

 古墳時代に、日本(倭国)の朝鮮半島への進出を示す史料は「結構」あります。

 歴史書としては、宋書倭国伝に記載されています。
 宋書倭国伝には、倭王済が「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を受け、倭王武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の受けたと記述されています。
 つまり、中国の文献に記載されています。

 高句麗の広開土王碑(韓国の学者が、日本による改ざんを唱えていましたが、中国で拓本が発見され、改ざんなしとわかっています)には「倭が新羅や百済を臣民とした」と記されています。
 韓国は「改ざん」と主張していましたが、後日、中国で拓本が発見され、「改ざん」説は否定されています。
 高句麗を朝鮮とみれば、朝鮮の石碑に記載されています。

 日本書紀の「雄略紀」や「欽明紀」などにも、朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む任那に倭国の出先統治機関があったと記載されています。
 日本の歴史書に記載されています。


 韓国からの「クレーム」で、現在は「任那日本府」は教科書に掲載されなくなったようです。

 1983年に、韓国に「前方後円墳」が発見されました。
 1983年に発見された「慶尚南道(韓国の行政区分)の松鶴洞一号墳」は、結局、時代の異なる複数の墳墓が重なったものであると後に判明するのですが、それ以降、全羅南道(韓国の行政区分)に11基、全羅北道(韓国の行政区分)に2基の前方後円墳が確認されました。

 韓国は、前方後円墳を隠しませんでした。
日本の学者と共同調査もしました。
 韓国の政府と学者は、前方後円墳は、韓国から日本に「伝来」したものと思いこんでいたようです。

 朝鮮半島の前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、伽耶諸国の勢力圏であった地域に存在にしていました。

 日本の前方後円墳が3世紀から6世紀のものなのに対し、朝鮮半島の前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉、どう考えても日本が先です。
 それだけなら、前方後円墳は、3世紀以前に、韓国から日本に「伝来」したと「強弁」できないでもありません。

 ただ、そうもいかなくなりました。
 朝鮮半島の前方後円墳から、翡翠でできた勾玉(まがたま)が出てきました。朝鮮半島に翡翠は出土しません。また、朝鮮半島の前方後円墳から、埴輪らしきものが出てきました。埴輪は日本の墳墓などからしか出土されません。

 「日本人(倭人)の墓やないか!」ということですね。
 韓国は、だまって埋戻しました。韓国のいつものやり方です。

 韓国では、韓国国内で出土する「前方後円墳」については、新羅や百済が、倭人を傭兵としていて、傭兵である倭人が死んだときに、「前方後円墳」をつくり埋葬することを、「褒美として」「許し与えた」ということになっているそうです。

 韓国の「前方後円墳」の付近に、王侯貴族の大きい陵墓があるわけではありません。
 王侯貴族は小さい陵墓、家臣である傭兵の陵墓は大きい「前方後円墳」ということですが、素直な解釈でしょうか。

 素直に考えれば、韓国の前方後円墳は、倭が、伽耶(加羅)諸国だけでなく、一時期は(少なくとも、前方後円墳が築造された時代)、新羅や百済の版図を支配していたことの裏付けとなりそうですね。

 弁護士的な発想からすれば「新羅や百済が、倭人を傭兵としていて、傭兵である倭人が死んだときに、『前方後円墳』つくり埋葬することを、『褒美として』『許し与えた』」と無理な主張をした段階で、その訴訟は敗訴確定です。

 嘘をつきとおすなら、いっそのこと「朝鮮半島の政権が倭を支配していた」とすれば、まだ「勝訴」の目があります。

 ただ「朝鮮半島の政権が倭(ヤマト政権)を支配していた」と主張してしまうと、「もともと同一の国だから」「日韓併合は正当だ」という反論が怖いということになります。
 もちろん、そんな主張はされていません。
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