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2018年バックナンバー

雑記帳

ユダヤ人を助けた日本人

 世界のユダヤ人が、アメリカを除いて、感謝する国として、真っ先に日本を挙げるとされています。
 
 過去、ナチスヒトラーの迫害で命が危うい状況に追いやられた時、1万人近くのユダヤ人が日本の支援のおかげで決定的に命を助けられたからです。
 
 このうち、外交官である杉原千畝の話は有名ですね。
 
 第2次大戦時、リトアニア駐在日本領事代理として勤務しつつ、6000人ないし1万人に達するユダヤ難民たちに日本のビザを発給し、ユダヤ人たちが虐殺から逃れることができました。
 
 杉原千畝は、外務省の指示を無視して、ユダヤ人にビザを発給されたとされています。
 
 ただ、それだけでは、ユダヤ人は日本に来られません。
 
 飛行機はなくシベリア鉄道という陸路ですから、ソ連と満州の境界を越えないといけません。
 
 昭和12年に、日本とドイツは、日独防共協定を締結しました。つまり同盟国でした。
 
 昭和13年(1938年)3月、ユダヤ人18名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連・満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅(現・ザバイカリスク駅)まで逃げて来ました。
 
 樋口季一郎関東軍中将は、命をかけて極東まで避難してきたユダヤ人難民が、ビザがないマイナス30度の凍土に苦しんでいたとき、入国ビザを発給し、ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、さらには膠着状態にあった出国のあっせん、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行ない、彼らを救出しました。
 
 その後ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、上海まで彼らを乗せる列車を手配した東亜旅行社(現在・JTB)の記録によると、満州から入国したユダヤ人の数は、1938年で245名、1939年551名、1940年には3574名まで増えたそうです。
 
 樋口季一郎関東軍中将がユダヤ人救助に尽力したのは、ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中グルジアのチフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄った際、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人から「ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた」からともいわれています。
 
 あるいは、ユダヤ人は、他の白人と違って、日本人を非白人として差別しないということに好感を持ったからとも言われています。
 
 この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッペントロップ外相からの抗議文書が日本に届きました。
 
 樋口季一郎関東軍中将は、関東軍司令官植田謙吉大将に、みずからの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東条英機中将と面会した際に「ヒトラーのおさき棒を担いで弱いものいじめをすることは正しいと思いますか」と発言し、この言葉に理解を示した東条英機中将は、樋口中将を不問としました。
 
 その後、ドイツからの再三にわたる抗議も、東条英機中将は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴したそうです。
 
 樋口季一郎関東軍中将は、参謀本部を経て、北海道札幌に本部を置く北部地域の防衛司令官として赴任しました。
 
 ソ連は、1945年8月9日、日ソ中立条約の一方的破棄をして、日本に宣戦布告をしてきました。
 
 ソ連は、最初から「ヤルタ協定」をやぶって、北海道本土の占領を狙っていました。
 北海道上陸部隊や艦船もそろえていました。
 
 1945年8月11日、ソ連軍による南樺太占領作戦を開始し、8月18日、ソ連軍が千島列島北端の占守(しむかっぷ)島に侵攻しました。
 
 日本政府の機能が麻痺した状態で、樋口季一郎司令官は独自の判断で、一戦不辞の覚悟で戦いに出る決断を下します。
 
 樋口季一郎司令官は、独自の判断で、北方地域に散らばった日本軍を急いで再整備し、ソ連軍の大々的な攻勢に対抗して戦いました。
 
 占守島の攻防は、8月24日まで続き、ソ連は出鼻をくじかれます。
 
 ソ連が、北海道本土にまで侵攻できなかったのは、樋口季一郎中将が、日本が降伏し、日本政府の機能が麻痺した状態にもかかわらず、ソ連の攻撃に反撃し抵抗したからといわれています。
 
 そして、樋口季一郎中将の決断がなければ、千島列島は、容易に陥落し、ソ連軍は、北海道に侵攻し、占領したともいわれています。
 
 激怒したソ連は、樋口中将を戦犯と指定して、日本を軍政統治していた米国に対して、身柄を引渡すよう要求しました。
 
 しかし、マッカーサーはソ連のこの要求を断固として拒否しました。
 
 マッカーサーが拒否した理由ですが、当時ニューヨークに本部を置いていた世界ユダヤ協会が、米国防総省に助命嘆願を働きかけ、戦犯リストから外させたというエピソードがあります。
 
 また、杉原千畝とともに、樋口中将の名がゴールデンブック(ユダヤ民族が大切にする聖典で、ユダヤ民族出身の世界的人物名を記載したもの)に刻まれ、日本イスラエル協会から名誉評議員の称号を贈られています。
 
 東京裁判では、日本軍の核心要職にあった主要指揮官であったにもかかわらず、樋口中将は、取調べも受けませんでしたし、裁判にもかけられず、余生を暮らし、天命を全うしています。
 
 A級戦犯になるかならないかなどは、その程度の違いでした。
 
 また、ユダヤ人救出では、外交官である杉原千畝が有名なのに、樋口季一郎中将が知られていないのは、軍人であったという理由からでしょう。
 
 何か、不公平な気がします。
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