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2019年バックナンバー

雑記帳

稲むらの火祭り

 日本には、地震・津波や台風など、自然災害が多いですね。 
 
 令和元年10月19日、和歌山県有田郡広川町で、第17回「稲むらの火祭り」がおこなわれます。
 
 参加者は、たいまつを手に、広川町役場前から、当時の避難先となった高台にある広八幡神社まで約2キロを歩きます。
 
 「稲むらの火」をご覧下さい。
 
 濱口梧陵は、安政元年(1854)の安政南海地震の際、紀伊の国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)に津波が押し寄せた際、波にのまれながら、「にげろ!丘にあがれ!津波が来たぞ!」と必死で村人たちに叫んで、高台にある広八幡神社へと避難を呼びかけました。
 
 津波は川をさかのぼって家や田畑を押し流したあと、いったん、海へ引いていきました。
 
 濱口梧陵は、暗やみでどこへ逃げればいいのかわからずさまよっている人がいるにちがいないと考え、とっさに「そうだ。もったいないが、あの丘の稲むらに火をつけよう」と、積上げられた稲の束に火をつけてまわりました。
 
 すると、逃げおくれた村人が次から次へと、稲むらの火を目指して丘にのぼってきました。
 
 全員が、高台にある広八幡神社に避難し終わったときに、さらに大きな津波が押しよせて、稲むらの火も波に消されるほどでした。
 
 以上が「稲むらの火」のお話です。
 
 「稲むらの火」には、後日談があります。
 
 その後、広村では、津波で家族や家、仕事を失った村人たちはうろたえるばかりで、村を捨てて出て行こうとする人もいました。
 
 濱口梧陵は「村人に働いてもらってお金を払い浜に堤防を築こう、生活に役立ててもらおう。そうすればきっと、生きる希望もわいてくるはずだ」と考えました。
 
 地震のあとの炊き出しで、蔵の米もすっかりなくなっていましたが、濱口梧陵は家族や店(しょうゆ造り。北隣の和歌山県有田郡湯浅町は、日本の醤油の発祥の地とされています)の人に、村を守りぬくための協力を求めました。
 
 広村の人たちは、濱口梧陵の決断に心の底から感謝しました。畑の仕事や漁の仕事をしながら、一生懸命に働いて堤防を造っていきました。
 
 4年がかりで大きく立派な堤防が完成し、海側には松の木を、土手には、はぜの木を植えました。
 
 昭和21年12月21日に昭和南海地震が起こり、4メートルの津波がおそいましたが、堤防に守られた地域は無事でした。
 
  なにか「作り話」のようによくできた話ですね。
 
 和歌山県有田郡広川町は、南海トラフ地震では高さ最大10メートルの津波が想定されています。
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