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2019年バックナンバー

雑記帳

煬帝の墓?

 平成25年11月16日、中国考古学会は、江蘇省揚州市で会見し、平成25年3月に見つかった2つの古い墓が、約1400年前の隋王朝の第2代皇帝である煬帝(ようだい。西暦569~西暦618年)と妃の墓であることが確認されたと発表しました。
 
 中国新聞社(本社・北京)は、中国考古学会が「重大な考古学上の成果」と述べたと伝えました。
 
 2つのれんが製の墓は不動産開発の工事中に発見されたもだそうです。
 
 そのうち1つは、長さ(最長幅)約25メートルで、墓誌、玉器、銅器などの副葬品が100点余り、50歳前後とみられる男性の歯などが出土したそうです。
 
 煬帝の墓と推測されるとのことです。
 墓誌があるのに「推測される」というのは不思議なことです。
 
 もう1つの墓は長さ(最長幅)約13メートルで、副葬品は200点余り。56歳前後とみられる女性の人骨があったそうです。
 煬帝の妃の墓とみられるとのことです。
 6歳「姉さん女房」ということでしょうか。
 
 中国の考古学の技術はすごいようですね。
 「50歳前後とみられる男性の歯」はともかく、「『56歳』前後とみられる女性の人骨」となると、ほとんど神業ですね。
 
 ちなみに、煬帝は、宇兄弟・裴虔通らによって、末子の楊杲(13歳)と共に50歳にして殺害されたとされています。
 
 煬帝の死亡とともに隋王朝も滅亡していますが、誰が、煬帝と妃を、墓誌、玉器、銅器などの副葬品とともに埋葬したのでしょうか。
 
 一説には、唐王朝の時代に改葬されたという説もあるようです。
 
 話はかわって、煬帝といえば、聖徳太子からの国書ですね。
 
 隋書倭国伝によれば「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」という国書が倭王から送られ「帝覽之不悅」とされています。
 
 ただ、隋書倭国伝によれば「明年、上遣文林郎裴世清使於倭國」(翌年、日本に、裴世清を使わした)と記載されていますから、あながち「激怒」ということでもなさそうです。
 
 高句麗との戦争に忙しかったのかも知れません。
 
 ちなみに、厩戸皇子は実在したが、聖徳太子は実在しなかったという学説もあるようです。
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